阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「地下鉄を渡り歩く」青野明人
男は電車に揺られていた。
レールを軋ませる低い音が響き、窓からは無機質な暗い壁が映し出されるばかりだった。
目的の駅まではかなり時間がかかる。車内は特段混みあっている訳ではないが座席は空いておらず、男は吊り革に掴まっていた。ふと隣の車両に目をやるといくらか空席があるようだった。男はそちらに移動することにした。
一両目から二両目に移動した男は早速空いている席に腰を下ろした。特にすることもなく暗い窓を眺めていると電車は速度を緩め、車内アナウンスが「若草駅」に到着したことを知らせた。大勢の学生が車内に雪崩れ込んできた。
男は子供が好きではなかった。彼らは大きな声で喋り謎の自信に溢れ自己中心的だ。落ち着いていた車内は途端に賑やかになり、学生達は恋愛の話やスポーツの話を笑いながらしていた。
男は我慢ならず三両目に移動した。三両目を見渡すと席は空いていなかったが、車内は落ち着いていた。男は安心し、吊り革に掴まった。
電車は「老害駅」に到着した。腹の出た豚のような中年の男が缶ビールを片手に乗車した。中年豚男は顔を紅潮させながら汗を垂らし、強烈な臭いを車内に充満させた。座っていた一人の若い女性の肩に手を置くと「俺があと十年若けりゃお前を嫁に貰ったのに」と言った。女性は薄く笑うばかりであった。
吊り革に掴まっていた男はひどく嫌悪した。何故この車内の人間は誰も中年豚男に注意しないのだ、と。どう考えても中年豚男の言葉はセクハラだ。あれだけテレビやインターネットで問題視され、話題になっているというのに誰も配慮する気配がない。許しがたく思った男は居ても立っても居られず、急いで四両目に向かった。
四両目は人でいっぱいであった。人混みを押しながらなんとか入っていくと「無知駅」に到着した。ただでさえ混雑した車内に限界まで人が入ってくる。人と人の間に隙間はなく、身動きが取れない。周りの乗客の息が首筋にかかり辟易する。車内はかなり熱気が籠っていて暑い。人々は大声で怒鳴ったり文句を言ったりしている。しかし誰も車内を移動したり乗るのを諦めたりしようとはしなかった。男は信じられない気持ちでいっぱいになった。足を踏まれ、四方八方から強く押し込まれ、必死に中央まで到達したというのに誰も助けてはくれないし、褒めてもらうことすらない。考えなしに人が集まって車内は悲惨な状況だ。駅員は何をやっているのだろうか。こんな状況を放置するなんてどうかしている。
男は意を決し、人の海に飲まれながら五両目を目指した。中には男の手を引っ張り進ませまいとする者や身体に縋り付いてくる者もいる。苛立ち疲弊しながらもやっとの思いで男は五両目に到着した。
五両目に入ると電車は「紛争駅」に到着していたようであった。けたたましい銃声が響き、辺りには血と硝煙の臭いがする。座席や吊り革はなく、酸素も薄い。四両目とは比べ物にならないくらいの怒声や、悲鳴がひっきりなしに聞こえていた。男は吐き気を催し、身の危険を感じながらも地に身体をへばりつかせ前進した。
この電車は六両編成だ。ここを抜ければ自分にとって幸福な場所に到達出来るはずだ。……いや、そんなことよりもこの地獄を突破したい。四両目が天国に思える。しかし、男はもう引き返すことは出来ないような気がしていた。全身に傷を負いながらも一心に六両目に向かった。
男は奇跡的に六両目に到着した。五両目から脱した喜びに心を震わせ、よろめきながら立ち上がった。六両目は音もせず、血と硝煙の臭いもせず、座席も吊り革もなかった。そして乗客も男を除いては存在しなかった。男は振り返って五両目を確認しようとした。しかし、あったはずの五両目はもう無くなっていた。どれだけ時間が経とうとも、到着駅を知らせるアナウンスは聞こえてこなかった。
男は止まることなく走り続ける車内で立ち尽くし、窓を見た。窓からはただ無機質な暗い壁が映し出されるだけであった。