阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「キャバクラのティッシュ配り」岡本香月
夜、自宅の最寄駅で通勤電車を降り改札口を出る。
表通りに出ると、交差点の片隅にちょっと垢ぬけた普段着姿の若い女性が数人たむろしている。
無意識のうちにそちらに向いた私の視線を捉えた一人が走り寄ってくる。
「お疲れさまです」
彼女はそう言ってティッシュを差し出す。カバンの中にはすでにそのティッシュがいくつも入っているのだが、ここで無視するのも大人げない。
私が受け取ると彼女はそっと微笑む。ジーンズにスニーカーのよく似合う女性だ。
ティッシュには近くのキャバクラの広告が挟み込んであり、初回限定をうたった割引券にもなっている。ここで彼女たちがそれを配り始めてから数か月が経つだろうか。残業をしたり酒を飲んだりして遅くなった日には見かけないので、おそらく開店前の時間帯を利用して新規顧客の獲得に努めているのだろう。当番制なのか日々女性は代わるようだが、目が合うと素早く近づいてくるのは一緒だ。しかし彼女たちもそれなりに人を選んでいるようで、例えば私の前を歩いているあまりお金を持っていそうもない学生風の青年やジャージ姿の老人には目もくれない。
もっとも私もその店に行ったことはない。街頭で若い女性に労をねぎらわれ微笑みかけられるのだから、まったく気にならない訳ではない。しかし、部長への昇進のかかる大切な時期だし、息子の希望する学園都市での進学も全力でバックアップしてやりたいので、そんなことにうつつを抜かしている暇はない。
夜、自宅の最寄駅で通勤電車を降り改札口を出る。
表通りを避け、裏通りに向かう。こちらは人通りが少なく、余計なことに気を散らされずに済む。
その後、私を取り巻く環境は大きく変化する。職場では後輩が部長に昇進する。私の職場では一定の年齢までに部長になれないと、役職を外れ一般社員扱いとなる。いずれ部長になりこれまでのサラリーマン生活の集大成として責任ある仕事をしたいと考えていたがそれは叶わぬ夢となる。そのため士気は大幅に低下するが、退職して日々を無為に過ごす気にもなれない。息子は学園都市での進学に失敗し、その後は自宅に引きこもっている。日々頭に浮かぶのは先行きに対する不安ばかりだ。そんな時の帰り道は静かな裏通りの方がいい。
しかしふと、今日は老眼鏡を注文した眼鏡店に立ち寄るため、久しぶりに表通りから帰ることにしていたことを思い出し、踵を返す。
俯いて歩いていると突然目の前に若い女性が現れ、ティッシュを差し出す。
このところずっと裏通りから帰っていたので、キャバクラのことはすっかり忘れている。たまに用があって表通りから帰ることもあったが、最近はあまりそれらしい女性たちを見かけなくなっていたような気がする。
しかし受け取ったティッシュをよく見るとキャバクラではなく、高齢者の活用促進をうたうNPO法人のもので次のような文言が並んでいる。
「知識と経験の豊富な高齢者の皆さん。若者の就業支援に協力していただけませんか」
なんだよ、と思う。どうやら高齢者向けのこれまでの職業生活を活かしたボランティアの誘いらしい。私にだってできることはあるだろうが、まだそんな歳ではない。私は心の中で苦笑いをしてティッシュをカバンの中に投げ込む。
振り返って交差点の片隅をよく見ると、キャバクラのティッシュ配りの女性たちは別にいる。どうやら私には気づかなかったらしい。
翌日の夜、改札口を出た所で少しだけ迷い、表通りに歩を進める。
かつてのようにキャバクラの女性が近づいてくるのを待つ。一度くらいは行ってみてもいいかもしれない。私にもたまには気分転換は必要だ。住宅ローンは退職金で完済する目途が立ったし、当面まとまったお金を使う予定もない。しかし一人が一瞬だけこちらに視線を向けたが、近寄ってくる気配はない。
すると別の所から若い女性が近づいてきてティッシュを差し出す。例の高齢者の活用促進をうたうNPO法人のものだ。
さらにその翌日の夜、やはり表通りから帰る。
私は周囲に目もくれず、キャバクラの女性たちに向かって一直線に突き進む。そしてそのうちの一人の前に立ち、黙って手を差し出す。たじろいで棒立ちになった彼女が手に持っているティッシュを、ほとんど奪うようにして受け取る。
私は少し心臓の鼓動を速めながら、やっと入手したティッシュの割引券を眺める。
よし、これを持ってキャバクラに行くぞ。私は心の底に淀む迷いを振り切るように呟く。
そんな私にNPO法人の女性がためらう素振りも見せず走り寄ってくる。