阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「上りが下り」高田昌彦
体質的に下痢をしやすい人がいる。IT企業に勤める田中さんもその一人だ。特に朝の通勤電車が苦手だった。都心にある会社の最寄駅まで三〇分の車中なのだが、その三〇分がもたない。ラッシュを避けて早めに出かけ、急行は敬遠して各駅停車に乗る。危なくなったら素早く駅のトイレに駆け込めるように、いつもドアの近くに立つようにしている。田中さんは沿線全駅のトイレの位置と個室の数、混雑具合を把握していた。運悪く個室が満員だと、脂汗をたらしながら順番待ちをしなくてはならない。
その日の朝も、田中さんは途中駅のトイレに駆け込み、間一髪で危機を脱した。安堵の溜め息をつきながら手を洗っていると、突然、背後から声をかけられた。
「失礼ですが、下痢でご苦労されているようですね」
ビクッとして振り向くと、田中さんよりやや年配の青白い顔をした男が立っていた。ダークスーツに地味なネクタイを締め、銀行か官庁勤めといった雰囲気が感じられた。
「驚ろかせてすみません。いえ、よくあちこちのトイレでお見かけするものですから・・・。実は私も同じ悩みを抱えているんです」
男は苦笑いを浮かべながら挨拶した。
「え、あなたも・・・?」
「はい、われわれサラリーマンに結構多い病気らしいですよ」
男は情けなさそうにつぶやいた。
「これ、病気なんですか? ただの体質だと思っていましたが」
「いえいえ、過敏性腸症候群という立派な病名がついているんですよ」
下痢のわりには大層な名前がついているんだな、と田中さんは思った。
「まあ、ストレス病の一種ですね。ストレスが心に出る人、胃に出る人、腸に出る人、体質によっていろいろなのだそうです」
「お詳しいんですね」
「私はもう十年選手ですから」
男は口元をゆがめて静かに笑った。
田中さんと男がホームに戻ると、各駅停車が入ってきた。二人は目配せし一緒に乗車した。同病者がそばにいるのが田中さんには何となく心強かった。二人は吊り革につかまりながら小声で言葉を交わした。
「ぼくは朝出社するときに弱いんですが、帰るときは何でもないんですよ」
田中さんは先輩格のその男に打ち明けた。
「多くの人はそうですね、出勤の途中で下痢しやすいんです。しかし中には逆に、帰りの電車が苦手な人もいます。つまりその人は、下り電車に乗ると下るんです、うっふふ」
男は気だるそうに笑った。
「ではぼくは、上りが下り、か」
田中さんも苦笑した。男は静かにうなづいた。
「上り電車のほうが下りやすい理由はわかりますか?」
「いいえ」
「多くのサラリーマンは出社するときにストレスを受けているわけです。最も重症は出社拒否症です。われわれ過敏性腸症候群患者の場合、心は頑張っているんだけれど、大腸が拒絶反応を起こしているわけですよ」
なるほど、そういえば自分の下痢は、上司があいつに変わってからひどくなったんだ、と田中さんは腑に落ちた。何で年下のあいつが俺を飛び越して課長になりやがるんだ。いまいましい気持ちが込み上げてきて顔面が紅潮し唇が震えた。
「大丈夫ですか?」
男が心配そうに田中さんの顔を覗きこんだ。
「いやいや、別に・・・なるほど。そうすると下り電車で下痢する人は、家に帰るのがストレスだということですか」
「その通り、たぶん奥さんが怖いんでしょう、うっふふ。ちなみに私は、上りも下りも、下りです」
男は自嘲的につぶやいた。田中さんは首を振り俯いた。そのまま会話が途絶え、しばらくして電車は終点のターミナル駅に着いた。
「またどこかの駅のトイレで会いましょう」
田中さんと男は戦友のような気分で挨拶を交わし別れた。駅構内の雑踏を歩きながら、田中さんはそっと下腹を撫でさすった。これまでずっと疎ましく感じていた虚弱な大腸が、切なく愛おしく思えてきた。そうか、ぼくが我慢していた分、お前にしわ寄せがいっていたのか。この下痢は、もう我慢するなという大腸からの警告なのかもしれない。
田中さんは目をつりあげ、きょうこそあいつにガツンと言ってやると心の中で叫んだ。下腹がグルグルと鳴った。あ、大腸も賛成しているんだ、と田中さんは思った。
改札口を出ると、目の前に田中さんの勤める会社のビルがそびえ建っていた。立ち止まって、自分のデスクのある十五階あたりのフロアーを見上げた。朝日が反射して白く光っていた。目をつぶって深呼吸をしたとき、背後から肩をポンとたたかれた。田中さんは不吉な予感とともに振り返った。
「おはよう、田中君」
年下の上司が無表情な顔をして立っていた。
「あ、課長、おはようございます!」
田中さんは咄嗟に、さわやかな笑顔で挨拶を返していた。そのとき下腹がゴロゴロゴロと大きな音を立てて鳴った。あわてて下腹部を押さえた。
〔す、すまん。もう少し待ってくれ。心の準備ができたら、必ずガツンと言ってやるから〕
田中さんは大腸に向かって小声でささやいた。