阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「第一条件」三浦幸子
何度目の引っ越しだろう。
下見の時に来たきりだが、見た目は理想どおりのアパートだ。いまどきこんなぼろアパートが存在すること自体珍しい。
軽自動車に布団とパソコン、ミカン箱一箱の衣類。以上。
近くにコンビニがあれば、冷蔵庫も鍋も食器も要らない。客が来ることも無いから湯沸かしポットもカップも要らない。
身の回りのものといっても、引っ越しの度に荷物は減っていき、今はこの軽自動車一台でどこにでも引っ越せる。
さて、ものの一時間もすれば引っ越し完了。これから起きることに胸を躍らせながら、その時を待つ。
夕方になって、左右のお隣さんが帰ってくる。電気が点くと壁の隙間からあかりが漏れてくる。
理想の部屋だ。膝にパソコンを乗せスタンバイ。
耳をすませて、わくわくが止まらない。聞こえてくる様子を指先からパソコンに写す。
右のお隣さんは若いカップルだ。結婚しているのか同棲なのか分からないが、とにかく若い。二人ともまだ二十を少し超えたぐらいの声だ。
週に何回か、二人で台詞のようなものを言い合う。何度も同じ言葉を繰り返すから、それが台詞だとわかる。
「はーい、こんにちは。僕たちの」
「もうちょっと甘い声がでないかなあ」
「はーい、こんにちは。僕たちのぉ」
「語尾は伸ばさないで!」女の子の方がしっかりしている。
あるときは音楽をかけながら、キャッキャと騒いでいる。
「あー、もっとこっち向かなきゃだめ。足はそっちで、顔はこっち。ね。もう一回やり直し」
ミュージカル俳優でも目指しているのか。
「これって難しいよぅ。やり方変えてみない?」
「だめ! はい、もう一回」
これらのやりとりが、毎回二~三時間は続く。
静かになったと思ったら、後はずーとキーボードをたたく音と男の子のため息が、朝まで聞こえている。
ゲームをしているにしても、えらい真剣な様子だ。
一方、左のお隣さんは、若いお母さんと小学校三年生くらいの女の子だ。
この部屋はじつに静かだ。
これくらいの子だと、テレビを見たり、ゲームをする音が聞こえたりするはずだが、夕食の時に食器の音が聞こえてくるくらいだ。
この部屋に、たまに男性が訪ねてくる。別れた旦那か、それとも母親の新しい男か。女の子と男が話す声はたまにするが、ボソボソしていてはっきり言葉として聞こえてこない。だが、女の子が男を嫌がっている様子は感じられない。
シングルマザーの生活は厳しすぎる。
それに、この母親の声は本当に何も聞こえてこない。壁に耳を付けて、じかに聞いてみても聞こえない。
もしかしたら、耳や声に障害があるのかもしれない。
新しい彼なら、上手くいってほしいものだ。
ともあれ、このアパートの壁の薄さに感謝しよう。
おかげで、壮大な宇宙ロマンの小説を書き上げることができた。両隣の住人を登場人物にし(今回は、物静かな左隣の母親を主人公にした)そして、練りに練って、ついに大作が完成した。
私は怪しいものではない。小説家だ。
引っ越し先で耳に入るものから想像を膨ら
ませて小説にし、いくつものヒット作品を世に送り出してきた。
この作品も、来月の末には書店に華々しく並ぶだろう。
そろそろ引っ越しの準備だ。近くの不動産屋に飛び込んだ。
「どのようなお部屋がよろしいですか?お客様のようにお若い女性だと、オートロック付きだとか、おしゃれなロフトがあるものまで、たくさんございますが。まあ、少しお家賃は高くなりますがね。こちらの……」
店員は、勝手に喋っている。長くなりそうなので途中で遮った。
「できるだけ古いアパートがいいんです」
「いや、古い所はたしかに家賃は安いですが、汚い感じが……いや、もちろん掃除はしてありますが。畳も古いですし……壁も薄いですし」
「はい、その壁の薄いのが第一条件でして!」