阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キャッチボール」ロジィ
とあるアパートのワンルーム。ベッドの上に正座した女性が、壁に向かって何やら話し掛けている。
「はい、タケムラ商事、岡部でございます。――はい、柏木でございますね。すみません。えっと、ただいま出掛けて、じゃなくて外出しておりまして、後ほどこちらからご連絡差し上げます。――はい、では失礼しま……あ、違う。申し訳ありませんだ。連絡先も確認しなきゃ。えっと、じゃあ今度はいるパターンで――はい、タケムラ商事です」
岡部美奈子、二十四歳。社会人二年目。営業事務として、たいていの仕事はそつなくこなせるようになったのに、一つだけ苦手、というか恐れている仕事がある。それが電話だ。
相手の名前や連絡先を聞き忘れるなんてのはしょっちゅうで、この間なんて「加藤はいません」と言った瞬間に肩を叩かれ、振り返るとそれが加藤本人だった、なんてこともあった。
電話のベルが鳴った瞬間、美奈子はカチカチに固まってしまう。受話器を取った瞬間、ぱっと目の前に白い壁が現れて、ぐいぐいとこちらに迫ってくる感じがする。
恐怖と焦りで、美奈子はいつも言わなくていいことを言ったり、聞かなければいけないことを聞かなかったり。そんな失敗を繰り返している。
それでも、最近ようやく勤め先である「タケムラ商事」を名乗ることを忘れなくなったし(これだって美奈子にしてみたら大きな進歩なのだ)、きっといつかはちゃんとした応対ができるようになる。そう信じて、休日はずっとアパートの壁に向かい、イメージトレーニングを積み重ねている。
「はい、タケムラ商事、岡部でございます」
何度やってもうまくいかない練習の気分転換に、美奈子は散歩に出た。私ってダメだなぁ。もう電話のない世界に行きたい……。そんなことを考えながら公園を歩いていると、不意にピリリリリという電子音が聞こえた。え、やばい。私、とうとう幻聴まで!
すると、男の子と一緒にキャッチボールをしていた男性がポケットからスマートフォンを取り出して「もしもし」とやり始めた。なんだ、と胸を撫で下ろす。
急に相手を失った男の子は不満そうな顔で父親を見ていたが、ぷいと背を向けて駆け出した。どうするのかと見ていると、男の子は公衆トイレの壁に向かってボールを投げた。力加減が強かったのか、手が届かない高さまでボールは跳ね返った。追いかけて拾う。さっきよりそっと投げる。すると今度はずっと手前で落ちた。また拾う。そして投げる。今度はうまく手の中に収まった。投げる、跳ね返る、キャッチする。
感覚を掴んだのか、男の子と壁のキャッチボールはリズムよく続いていく。
投げる。跳ね返る。キャッチする。投げる。跳ね返る。キャッチする。また投げる……。
美奈子はそれをずっと眺めていた。
電話を終えた父親が「お待たせ」と男の子に声を掛け、それは終わった。
父と息子の微笑ましいキャッチボールが再開して、美奈子も公園を後にした。
プルルルル、プルルルル。
電話の音が鳴る。美奈子にも、心なしかオフィス全体にも「今日は大丈夫か?」という緊張が走った。
「はい、タケムラ商事、岡部でございます」
いつもの白い壁が見えた。じりっと美奈子に迫ってくる。これはアパートの壁だ。何度も、何度も話し掛けたあの壁だ。美奈子は自分にそう言い聞かせた。
「はい、HSカンパニーの田中様でいらっしゃいますね。いつもお世話になっております。――申し訳ございません。佐々木はただいま席を外しております。間もなく戻ってくると思いますので、よろしければ私がご用件を承りますが」
投げる。跳ね返る。キャッチする。その繰り返し。
白い壁と、壁に向かってボールを投げる男の子の姿が、美奈子の頭の中でぐるぐると渦を巻くように混ざり合う。頭と心と体と口が全部別々になったみたいだった。言葉がするすると美奈子から流れ出ていく。
「来週の打ち合わせの時間の変更ですね。――午前中の予定を午後に。かしこまりました。ご連絡は――はい、田中様の携帯に、ですね。佐々木に申し伝えます。はい――私、岡部が承りました。それでは失礼します」
メモを取る美奈子の手は、かすかに震えていたし、オフィスのどこかから「おお」という声が聞こえた。