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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「置き忘れた恋」山崎ゆのひ

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作文・エッセイ
結果発表
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第55回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「置き忘れた恋」山崎ゆのひ

焼香を済ませ出口に向かおうとすると、

「茂さんじゃありませんか」

優しい声とは裏腹に強い力で腕をつかまれて振り返った。声の主は、僕の胸ぐらいの小柄な老女だった。黒無地の着物を着て、通夜にはそぐわないようなピンクの珊瑚の簪を挿している。故人の親族だろうと思った。

「やっぱり茂さんだ。帰ってらしたんですね」

婆さんは涙ぐんで僕の腕にしがみついた。

「いや、人違いじゃないですか」

首を傾げて僕を見上げる顔は薄く口紅を引いただけで、あどけないと言ってもいい。

「まあ、じゃあ、貴方はどなたなの」

「郁也といいます」

「あら、今は郁也さんなのね」

「今も昔も、僕は郁也です」

「郁也さん、そうなんですか」

少しぼけてるのかな。この斎場では、遠い親戚の通夜が行われている、親父に頼まれて来ただけから知り合いはいない。人違いしている婆さんが気の毒になって、僕はそっと彼女の腕を外そうとした。僕の手が自分の手に添えられると、婆さんはパッと頬を染めた。

「郁也さん、お腹がおすきでしょう。何か召し上がりませんか」

僕は首を振った。ただでさえ人違いされて、この上のんびり飯なんか食ってられるか。

「いや、家が遠いので、そろそろ失礼します」

「まあ、もうお帰りになるの。せっかくお会いできたのに」

明日も仕事で、と愛想笑いをして立ち去ろうとする僕を、婆さんは素早く引き止めた。

「お願い。お棺の兄さんの顔を見てあげて」

「ええっ、だって、僕、生前の仏さんに一度もお会いしたことないんですよ」

「亡くなったのは、私の一番上の兄です」

「そうでしたか。ご愁傷様です」

「97歳まで生きたから大往生ですよ。老衰で、眠るように息を引き取りました」

婆さんはとても老人と思えない力でぐいぐいと僕を引っ張って、通夜が終わったばかりの祭壇に向かった。訳が分かないまま引きずられていくと、誰もいない祭壇の前に金襴の棺掛に覆われた棺が横たわっている。婆さんは数珠を手に掛けて拝み、棺の窓に掛けられた白い布をそっと取り払った。

「さ、あなたも」

僕は数珠を手にこわごわ棺を覗き込んだ。ガラス窓の向こうに白い顔が眠っている。僕は手を合わせ、何度も頭を下げた。

「初めてお目にかかります。初対面が亡くなったときなんて洒落にならないけど、どうぞ成仏してくださいね」

婆さんは、勝ち誇ったように言った。

「兄さん、兄さんはさっさと諦めろって怒ったけれど、茂さんはちゃんと帰ってきてくれたわ。どうぞ茂さんを許してあげてね」

婆さんは感極まってハンカチで目を覆う。そこまできて、僕は婆さんの行動に一貫性を感じ、恐る恐る聞いてみた。

「あの、もしかして、お婆さんは昔茂さんって人と結婚の約束をしてたとか」

婆さんはにっこり笑うと、懐から紙入れを取り出して一枚の写真を僕に見せた。セピア色になった白黒写真には、親しげに寄り添う一組の若いカップルが写っていた。女の方は若い頃の婆さんだろう。目の前の婆さんの面影があるし、当時と同じ簪を差している。隣の背の高い男の顔を見た僕は仰天した。

「えっ、これ、俺?」

年月を経てぼやけてきたとはいえ、写真には僕にそっくりな顔が写っていた。

「出征するとき言ったじゃない。この簪を挿しながら、必ず生きて帰ってくるから待っててくれって」

言われて思い出した。僕は隔世遺伝とやらで、祖父によく似ているらしい。祖父は僕が生まれる前に亡くなったけれど、確か茂といったっけ。戦後復員して、裸一貫で東京で仕事を始めたという。もしかしたら、ここが祖父の生まれ故郷なんだろうか。祖父が置き忘れた恋が僕を引き寄せたんだろうか。

駐車場に出ると満月が辺りを照らし、幾十もの蛍が飛び交っていた。婆さんは片手に簪を握り、片手で僕の腕にすがって空を仰いだ。

「いいお月様ね。今度はいつお会いできるのかしら」

言われて月を仰ぐ僕の顔を、婆さんは悲しげに見つめた。

「茂さん、また行ってしまうのね」

僕は婆さんに視線を移して笑いかけた。

「今度はすぐに帰ってこられると思いますよ」

婆さんは嬉しそうに微笑んだ。

「約束よ、茂さん。忘れないように簪持っててちょうだいね」

婆さんは僕の手に簪を握らせた。僕は簪を受け取り、車に乗り込んでエンジンをかけた。ライトを点けると、ばっと蛍が散る。車を発進させ、バックミラーを見ると、婆さんはいつまでも僕を見守るように佇んでいた。