阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「大人の階段」朝霧おと
「数珠、持った? はい、これはお香典ね。あらあ、その服ちょっと大きいかしらね、ま、いいか。だいじょぶだいじょぶ」
何が大丈夫か知らないが、母はぼくの背中をポンと叩いた。父の喪服は、丈は短いのに、体が服の中で泳ぐほどガバガバだ。
「もう成人なんだからやり方はわかるわね。とにかくうつむいて神妙にしていればいいのよ。挨拶は語尾をごまかしてごにょごにょとね」
父の中学校の同級生が亡くなった、という知らせが届いたのは二日前のことだ。あいにく父はシンガポールに出張中で、急遽ぼくが代理で行くことになった。
「いやだよ。葬式なんか行ったことないし」
「まあそう言わずにお願い。アルバイト代出すから」
のっぴきならない用事がある、と言っていた母だが、どうせだれかと遊びに行くのだろう。姉と兄は仕事があり、大学が休みでたまたま暇にしていたぼくに白羽の矢が当たったというわけだ。
葬儀はテレビのドラマでしか見たことがないので、何をどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
「まず、受付で名前を書くの。あんたの名前じゃないよ、お父さんの名前でいいからね。次に『このたびはご愁傷様でした』と言ってお香典を渡して、お焼香をしておしまい。ね、簡単でしょ」
そんなに簡単だっただろうか。以前テレビで葬儀に参列する際のマナーをやっていたが、決まり事があって難しいという印象しかなかった、自分には関係のないことだと思い、真剣に見てなかったことをいまさらながら後悔した。
会場は喪服の人たちであふれかえっていた。みな神妙な顔つきでひそひそと話すので、人は多くても会場は静かだ。
僕は胸をどきどきさせながら受付に向かった。
「こ、このたびは……」
なんて言うのか思い出せなくてあとはごまかした。
筆を持つ手が震える。それでなくとも字が下手なのに、筆字なんて書けるわけがない。最初の一文字が書き出せなくてオロオロしていると「こちらをお使いください」と受付の女性がサインペンを渡してくれた。
第一関門突破だ。
次に内ポケットにしまっていた香典を取り出した。ここで「このたびは」じゃなかったのか。わけがわからなくなり、母が言っていたように意味のない言葉をつぶやきながら香典を差し出した。
第二関門突破。
すでに焼香が始まっていた。厳かな読経の中、ひとりひとりが焼香台に進む。ぼくはまた緊張してきた。焼香のやり方がわからないのだ。人のやり方を見て真似すればいいと母は言ったが、ここからは焼香している人の手元が見えない。僕は汗ばんだ手で数珠を握りしめた。
そうこうしているうちにぼくの番がやってきた。心臓がバクバクと鳴り出す。人々の注目を一身に受け、僕はロボットのような足取りで前へ進んだ。焼香台まで来ると、祭壇の両サイドにいる親族に向かって頭を下げる。
僕の背中はすでに汗まみれだ。
隣で焼香をする男性の真似をした。粒状のものをつまんで額のあたりに持っていき、一呼吸置いて横の器に入れる。それをくり返し、正面を向いて手を合わせた。
遺影の男性は能天気な笑顔をこちらに向けている。
なあむう~。どうぞ安らかにお眠りください。
第三関門突破だ。
案ずるより産むがやすしとはこのことだ。こうした体験が大人へのワンステップだと思うと、母に感謝してもいいような気になる。
ぼくは晴々とした気分で外に出た。来たときよりずっと自信にみちあふれていた。
けど頭の隅で何かがひっかかっていた。本当にこんなにスムーズにいくものだろうか、何か大きな間違いをしたのではないだろうかと。一旦考え出すと、得体のしれない不安はものすごいスピードでぼくをのみ込んだ。
辺りを見回す。そしてふり返る。
ぼくの目線の先にあったのは葬儀場入口にある案内板だった。胸騒ぎといっしょに、再び嫌な汗が背中ににじみ出た。
葬儀が二件……。一つの建物の中で二件の葬儀。うそだろ……。
ふいにさっきの遺影が浮かんだ。どう見ても八十歳を越えた老人で、父の友人にしては老けすぎていた。あの笑顔はすべてお見通しだったということか。
たくさんの喪服の人たちがぼくの横をすり抜ける。ぼくはポケット中の数珠をにぎりしめて祈った。
助けて、神様、仏様。