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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「誰かの窓」栗太郎

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第54回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「誰かの窓」栗太郎

「窓を取りかえませんか? 今なら特別価格五千円ですよ」

エントランスに足を踏み入れたとたん、すり寄って来た男に、恵理子は眉を潜めた。高級マンションのセキュリティも、落ちたものだ。こんな胡散臭い男が入り込むなんて。

無視して通り過ぎようとすると、男は妙なことを言いだした。

「あなたの窓をお求めの方がいるのです。ご自身の窓と取りかえてくれないかと」

恵理子は思わず足を止めた。

「私の窓?」

「はい。都内一等地のタワーマンションで自由な一人暮らし。収入もキャリアも申し分なく、そのうえ大変な美人でいらっしゃる。女性なら誰でも憧れずにいられません。あなたの窓だからこそ、価値があるのです」

男の言葉に、恵理子の自尊心はくすぐられた。日々くたくたになるまで働いて、闘って……帰りつく自分の城は、確かに恵理子の自慢だったのだ。

「あなたの窓を欲しがっているのは、近く、三人目のお子さんを出産予定の女性です。大変優秀な方なのですが、子育ての為にキャリアを断念し、そのことを悔やんでいらっしゃるのです。もちろん、今は十分に幸せだとおっしゃっていますけれども」

「窓を取りかえるっていうのは……」

恵理子は乾いた唇をなめた。

「その人と、生活を取りかえるということ?」

「いいえ。取りかえるのは、窓だけです。そこから見える景色を取りかえるだけ」

「五千円と言ったわね」

「窓を取りかえるにはちょっとした作業が必要ですから、私の手間賃として」

迷う恵理子の背を押すように、男は続けた。

「実は、先方の窓は持ってきているのです」

男が手にしているのは薄いアタッシュケースだ。窓ガラスが入るようなサイズではない。では結局、男が言っているのは、窓から見える景色を印刷したシルクスクリーンのようなものなのだ。ただの遊び、ほんの気分転換。

そう思うと、かえって気が楽になって、恵理子は男を部屋に招き入れた。

 

「こちらの窓が良いですね」

恵理子のマンションをあちこち見て回った男はリビングルームの窓をさすった。

「では、作業を始めさせていただきます」

男がアタッシュケースから取り出したのは、一枚の白い布だった。男はそれで、無造作に窓を拭き始める。

やはり、からかわれたのか。

男に詰め寄ろうとした恵理子は、次の瞬間息を呑んで立ち尽くした。白い布でこすられた部分だけ、窓が色を変えたのだ。ビル街の灯りが消えて、紫紺の雲が広がる。

「あちらはまだ、陽が落ちたばかりのようで」

男は、どんどん窓を拭いていった。白い布が進むにつれて、恵理子の部屋の窓は、違う誰かの窓になっていく。

数分とかからず、窓はすっかり姿を変えた。呆然としたまま恵理子が財布から取り出した五千円札を恭しく受け取って、男は静かに出て行った。

 

通勤鞄をソファに投げ出して、窓の前に立つと、そこには藍色の静かな夜が広がっていた。彼方には海があり、灯台の光が輝いている。ずいぶん寂れた町並みで、日々の買い物にも不便そうだけど、どこか心が落ち着いた。窓を取りかえて半年が過ぎるけれど、朝に昼に夜に、見飽きることはなかった。

「窓が開けば良いのに」

スーツの上着を脱ぎながら、恵理子はつぶやいた。優しい風が吹いてくるだろうに。

けれど八十七階にあるこの部屋の窓は開かないのだ。空気清浄機とエアコンが二十四時間稼働していても、恵理子は時どき息苦しくなる。

それから恵理子は、窓を取りかえた相手のことを考えた。その人は、煌めく街の灯を楽しんでいるだろうか。見下ろせばゴマ粒ほどの車や人を面白がっているだろうか。

その時、ガラスの表面にさざ波がうまれた。

 

窓に映っている物は、既に馴染んだ夜景ではなかった。居心地の良さそうなリビングルームと、若い女性。ガラスに映るあの人は、この窓の本当の持ち主だ。

彼女は静かに体を揺らしながら、腕の中の子どもに微笑みかけている。満ち足りて、幸福そうで……他人の窓など、もう必要とはしていない。

「でも、私は……」

この窓の、向こうへ行きたい。今すぐに!

恵理子は強く、窓を叩いた。叩こうと、したのだ。透明で温かい水のように、窓ガラスは恵理子の手を受け止めた。

越えておいでと、囁くように。