阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ホラアレ小路」真宮コウ
「島根県ッ!」
夫の洋一は少し前のめり気味にリビングのテレビに向かって答えた。
テーブルの上には半分ほどビールが残ったコップ。泡はとっくに消え失せている。晩酌の習慣は洋一がリタイアして十年たったいまも続いているけれど、酒量は目に見えて減った。ビールは頻尿の原因になるからと洋一はうそぶくが、瓶を一本空けるのがもう夫にはもうつらいのだと江里子もわかっている。
テレビに映っているのはいつものクイズ番組だ。中堅どころのお笑い芸人がホスト役で、同じ局のドラマに出ている俳優やら女優やらがゲストの回答者として宣伝にやってくる。出題されるのはせいぜい中学生レベルの漢字の書き取りや社会常識。さっきの、島根県ッ!、も「出雲大社のある県はどこ?」という問題の回答である。
こんな程度の低い問題を大げさにクイズと呼んでさ、しかもゴールデンタイムに放送するなんてテレビ局の良心を疑うよな、とは洋一の口癖で、これには江里子も大いにうなずくところなのだが、そうは言いつつも毎週見てしまうのは案外と答えが出てこないことが多いからだ。
老境にある自分たち夫婦にとって物忘れというのは新しく出来た友だちのようなもので、えーとあれは何だったかな、ということが最近はよくある。つい昨日も、二人して贔屓にしている時代劇俳優の名前が思い出せず、
「ほら、あの人でしょ。あれに出てた…」
「ああ、そうそう。あの、ほら、あれ」
というやり取りをしたばかりである。
だから、たとえ簡単な問題であっても答えられるとうれしいし、ちゃんと思い出せたという感覚が気持ちいい。自分の半分にもならない年齢の出演者が悩んでいるのにスッと答えが出て来ると、いっそう得意な気持ちになる。要するにちょっとしたボケ防止なわけだ。
CMが終わり、新しい問題が出題された。アナウンサーが「次の物の数え方を答えなさい」とパネルを出すと、洋一は嬉々として答えていく。
「数え方ね。本は一冊だろ。靴は一足でビルは一棟。次はタンスか。タンスにゴン、じゃなくてタンスは一棹。ええと手紙は…何と数えるんだったか」
「千円札が新しくなったら、樋口さんともお別れね」
「樋口さん…? あっ、一葉ってことか」
自分が分かっているときはヒントを出してやるのだが、そのやり方もずいぶん板についてきた江里子である。
「で、ブドウな。ブドウ、ブドウ…?」
「ブドウの数え方はあれよ。ほら、あれじゃない」
「えーと、ほら、あれだよ、あれ。うーん…」
こんなふうに夫婦でホラアレ小路に迷い込んでしまうとなかなか出てこられない。ノドのすぐ下あたりまで答えが出て来ているのだけれど、そこから先がうまくいかない。出そうで出ないくしゃみみたいで気持ちが悪いから、必死にもがいて脱出を試みる。
「ブドウなあ。ブドウといえばデラウェア、紫色」
「ワインでしょ。それに信州」
思いつくままにブドウに関係しそうな言葉を挙げていく。脳を刺激してつっかえているものを取ってやろうというわけだ。ホラアレ小路に地図はない。山勘に頼ってとにかく歩くのがいつものやりかたである。
「ブドウ糖に黄色ブドウ球菌なんてのもあったな」
「あったな、なんて懐かしそうに言いますけどね、あなた。その菌のせいで入院したのはどこの誰でしたっけ?」
「ああ、あの時はホントにしんどかったなあ。何にも食べられないから一週間も点滴だけで栄養とってさ。あれは…もう二十五年前か?」
「たしか神戸の震災の前の年だったから、それくらいになりますかね」
「心配した会社の同期が見舞いに果物の盛り合わせを持ってきてくれたんだけどさ。そんなもの持って来られてもこっちは食中毒なんだから食べらんねえよって。しかもブドウも一房はいってて」
「もうブドウはコリゴリ、ってね」
二人して思い出し笑いをする。そして少し遅れて、いつの間にかホラアレ小路を抜けていたことに気づいて苦笑した。
「一房か」
「そう、房よ。房」
テレビの中ではお笑い芸人が眉根を寄せて考え込んでいる。それをよそ目に洋一はさっさと次の問題に取りかかる。
「ええと、次。将棋は一局っと。で、銃? 銃はえっと…」
「それはあれよ。ほら、あれ」
そうして二人はまたとぼとぼと、小路の散歩に出かけるのである。