阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「一九四〇」西田美波
家族葬に決めたのは、他ならぬ祖父自身だった。
祖父の古びた文机の抽斗からまとまった金額の現金とともに見つかったノートには、強い筆圧の角張った文字で、自分の死後について書かれていた。保険、銀行口座、年金、それらに関する貴重品の保管場所。遺品整理。訃報を伝えてほしい相手。八年前に亡くなり、納骨することなく手元に置いていた祖母の骨壷とともに永代供養の夫婦墓に眠らせてほしい旨。そういった諸々。書き終わった次のページが破られ、あとは白紙だった。
家族へのメッセージの類は無く、ノートの表紙に書かれた日付は三年前のものだった。大学を卒業して旅行会社に就職した私が今度一緒に旅行しようと誘うと、「楽しそうだな。でもまあ、まずは三年がむしゃらに働いて、一人前になることだ」と答えた祖父は、あのときすでに人生の終わりをすぐそこにあるものとして意識していたのだ。結局、一緒に旅行することは叶わなかった。
風邪をこじらせて肺炎に罹り、病室で皆に看取られながら最期の瞬間を迎えるまでのわずかな時間、娘である母を中心とした大人たちはノートのおかげでその後のことにあれこれ考え巡らす必要もなくただ哀しみに耽ることができた。
「なんでもひとりで準備しちゃって、いかにも父さんらしい。真面目すぎるのよね。少しぐらい、頼ってくれればよかったのに」
通夜を終え、寂しげに笑う母の視線は祖父のそれと交わっていた。遺影の中、真一文字に結ばれた唇が厳めしい。これもまた、祖父がいつのまにか事前に用意していたものだ。
「おじいちゃんって昔からあんな感じだったの?」
訊ねると、母は視線を少し上にあげ、考え込む仕草を見せた。
「そうねえ。私が小さい頃からずーっと、あんな感じね。口数は少ないし、笑顔だってほとんど見なかった。たまに、怒ってるんじゃないかって思ったりもしたのを憶えてる。孫が生まれてからは少し柔らかくなったけど」
「でもおばあちゃんはさ、明るくて社交的だったよねえ。まさに正反対の二人」
「そうなのよ、それが不思議でね。なんでこのふたりが夫婦なの?って」
「お見合い結婚だっけ」
「うん。でも、母さんはたぶん、父さんのことすごく好きだったと思う。父さんの隣にいるときいつも本当に幸せそうに笑って喋ってたもの。父さんは……どうなんだろう、よくわかんないな」
会話に少し間が空いたところで、おずおずと父の声が割って入ってきた。
「なあ、そろそろこれ、あけてみないか」
一本のボトルが手には握られている。通夜のあと皆で飲んでほしい。祖父のノートの最後にそう書かれていた。ラベルには祖父の名前、そして生まれ年の一九四〇という数字。
「まさかあの真面目な親父がなあ」叔父が感心したようにボトルを眺めて呟いた。「人生葡萄酒を作ってただなんて」
キリスト教においてパンと葡萄酒はイエスの血肉であると考えられている。それをもとに近年開発されたのが人生葡萄酒、つまり、人の血液を使った葡萄酒なのだ。その味は千差万別で、ひとつとして同じものは無い。その人の人生そのものが熟成された味がするのが特徴で、献血の要領で血を抜き、企業秘密の工程を経て一ヶ月ほどで完成する手軽さも一部で人気を博している。
「ワインって言っても血が入ってるわけでしょ? 吸血鬼の気分ね。飲んだことある?」
「私はこれが初めてだけど、周りは結構オーダーしたことある人いるよ。血の味は全然しないって」
この場にいる全員がどうやら人生葡萄酒を初めて飲むらしかった。誰も口をつけようとしないのはしかし、未知のものへの警戒心からではなく、祖父がどんな思いで人生を歩んだのかを知るのが怖かったからだ。
「ほんとに飲んで、いいのかな」
「本人の希望だもの」
自分に言い聞かせるようにして、母がグラスを傾けた。つられて皆がならう。
濃厚な香りが鼻先をくすぐる。舌に触れた瞬間感じ取ったのは微かな渋みだ。そして酸味。途端に後悔が押し寄せる。やはり知らないほうが――。
「……美味しい」
気付けば言葉が洩れていた。口の中に甘やかな海が広がっている。とくりと喉を滑り落ち、名残惜しく歯の裏をなぞる。もう一口。顔がほころぶ。それはたしかに幸せの味だった。祖父が伝えたかった、人生の味。
「父さんってば……最後にこんな、ずるい」
泣き笑う母の背中を父が優しくさする。
遺影の中からこちらを見つめる祖父が、そっと微笑んだ気がした。