阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「レフェリー」平井文人
やすお達とはいつも言い合いになる。
「お前な、レフェリーじゃないって、審判と言えよ。プロレスじゃないんだからな」
「やることは同じなんだから、どっちでもいいだろうに」と僕はいつもこれだけ小さく言って二人の真ん中にすわる。この、真ん中に座って、左右の対局者に軍人将棋の開始を告げるのを僕はとても誇らしげに感じていた。オシサンたちが興じる将棋とか囲碁とかは、正直、何をやってるのか理解できなかったから、僕たちはやすおが持っている軍人将棋でいつも遊んでいた。僕は、勝負ごとは、スポーツもそうだが、みんなレフェリーがいなくてはいけないと思っている。プロレスだけじゃない。ボクシングもリング場にはレフェリーがいる。柔道も剣道も、卓球、テニスなどもそうだ。力道山の勝利のためには、レフェリーが手を挙げるから、みんなが勝利を享受できるのだ。そこへ行くと、将棋や囲碁は、終わったのかどうか良く分からない。二人で笑い合って、また最初から始めるから、どうやら終わって、また新しく始まったらしいと分かるけど、どっちが勝ったのかはどうも分かりにくい。何が楽しいのやらまったく分からない。その点、この軍人将棋は、レフェリーがいて、ぶつかり合った駒の優劣を判定しなくてはならない。すべての駒が伏せてあるから、どっちが強いか自分では分からないのだ。審判と言え、とやすおは言うが、何も違いはないと僕は思っている。
少し前のことだが、オジサンが僕を相撲につれて行ってくれた。そこでは、相撲の勝負には、力士の名前を知らないこともあって、あまり興味がわかなかったが、土俵場でさばく行司に僕は魅せられた。手にした軍配の美しさや衣装のきらびやかさに息をのんだ。だから、軍人将棋でも僕は、勝ってる側の駒を持って、誰それの勝、と、手を右や左に向けて、勝ち名乗りをすることにしていた。やすおが相手の陣地を占領して勝負がついたとき、
「お前な……」とまた、やすおが言うので、審判にするよ、と僕は応じた。
「いや、じゃなくて、お前よ、うちのおとうが言ってたけど、なんでお前、自分の父親をお父さんと言わないで、オジサンと呼ぶんだ。オトウサンと早く呼ぶようにしないといけないよ」となんだか急に大人びた口調で言った。僕は意味が分からなくて、黙って駒を片付けていた。なんで急にそんなことを言い出したんだろうと、自分の知らない世界を、畳のへりを見ながら思った。
私が小学校三年の時、母は再婚した。少し前から、オジサンにキャッチボールを教わった。そこは、東北の米軍の施設で、オジサンは向こうの人たちと「英語」で話をしていた。野球のグローブを貸してくれて、だんだん遠くへ離れながらボールを受けたり投げたりした。
「上手だなあ。うまいよ、始めてならすごいよ」と褒めてくれた。これがオジサンとの出会いだった。ずっと後になって理解できたことだが、母はそのころ、米軍施設でタイピストのアルバイトをしていたらしい。そして、通訳業務をしていたオジサンと知り合ったわけだった。祖母からは、あなたのお父さんは戦争で死んだんだよ、と聞かされていた。お父さんという人が居たんだ、ということをなんとなく理解したが、それだけだった。やすおが言う、お父さん、という響きを僕は重く聞いた。学校では以前、父の日と言う行事があって、僕だけ白い花を受け取った。みんなは赤い花だったから、色のある花が羨ましかった。翌年、赤い花がいいなと思ったけど、やはり僕だけ白かった。お父さんのいない人は白なんだとだんだんわかってきた。やすおが言うように、オジサンでなくお父さんと呼んで、赤い花をもらえるなら、その方が嬉しいと思った。或る日、照れ臭かったが、
「お父さん」とその人に向かって、言ってみた。母もオジサンもとても嬉しそうだった。
しかし、引っ越した東京の学校では、いくら待っても父の日の行事は行われなかった。僕はがっかりして、ずいぶん損をしたと思った。
しばらくして、やすお達に本物の将棋を教わった。
「軍人将棋は戦争をイメージするから、もうやめた」というのだった。しかし、駒が表向きなので、何がどこにあるかお互いに分かっていて、なんだかつまらないと思った。それに、レフェリーなしで二人だけで勝負をするのは、気乗りがしなかった。中学生になった時、ヤスオのおとうが亡くなった。学校に来なくなった彼は、グレて競輪場でヤキトリ屋の手伝いをしてるという噂を聞いた。