阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「主婦は、戦う」冨安妙子
夕方六時前、東子は猛スピードで自転車をこぐ。風が頬にぶつかり、東子の息ははずむ。
東子の自宅から自転車で十分ほど走らせたところに、スーパー山大はあった。
スーパー山大は、田舎にある小さな生鮮食料品店だ。東子は、自転車置き場に自転車を止めリュックを背負うと、店の入口に置いてある買い物カゴを手にした。腕時計を見ると、六時五分を過ぎたところだった。
自動ドアをくぐり抜け、店内に入る。
ここが、東子の戦場だ。
スーパー山大では、午後六時過ぎから半額セールが始まる。肉や魚の生鮮食品を初め、弁当などの総菜も本日までの賞味期限の物が値下がる。
普段は六時前に入店して、あらかじめ品定めをしておくのだが、今日は学校の行事があって、出かける時刻が遅くなった。
店内を急ぎ足で回る。まだ、半額シールは貼られていない。東子は胸を撫で下ろす。東子は豚ロース肉百グラム当たり九十八円のパック三つと、鶏胸肉百グラム当たり四十八円のパック二つ、六枚切り七十八円の食パンに目星を付ける。
東子は頭の中でシミュレーションをする。
当たりを見回すと、このタイムセールの常連客が二人いる。
東子は神経を研ぎ澄ませる。店員の動き、客の動向に注意を払う。まず店員は、魚売り場から半額シールを貼りだすはずだ。
六時十分、半額シールを持った店員が店の奥から出てきた。東子は豚肉の陳列棚の前で待機している。店員は、刺身のパックの上に次々と半額シールを貼っていく。
店員の足は、牛肉の棚まで伸びた。東子の心臓は早鐘を打つ。アドレナリンが放出されているのだろう、自分でも興奮しているのが分かる。
東子は、獲物の目の前にしっかり立ち位置を構える。視線は、店員の歩幅を計ると同時に品物からも目を離さない。左腕に携えた買い物カゴで左横から接近する客をブロックする。
店員が牛肉に半額シールを貼り始めると、店員の周りに客が群がり始めた。
しかし、東子は微動だにしない。牛肉を買うつもりはないので、定位置で店員を待つ。これが、確実に勝利する秘訣だ。
店員が牛肉を貼り終え、東子のいる豚肉の棚にやって来た。店員は東子の右側に立つ。
東子は豚肉のパックにシールを貼る店員の指先を辛抱強く見守る。シールが貼られるまでは、決して東子は手を出さない。東子はフライングを嫌う。それは店への最低限のマナーだと考えているからだ。
シールが貼られると、コンマ五秒の速さで、パックの左下隅をつまみ、引き寄せる。豚肉のパックが一つ、また一つ、リズムカルにカゴに放り込まれていく。その間、東子は息を止めている。
「よっしゃああ」と、心の中で叫ぶ。豚ロース肉三パックがカゴに収まった。
豚ロース肉を狙っていた他の客から、落胆の声が漏れる。勝者は東子だった。
東子は、他の陳列されている半額商品を一瞥することなく、躊躇わずに次の戦場である鶏肉の棚へと移る。
鶏肉の陳列棚は三段あり、胸肉は下段にあった。店員は上の棚から順にシールを貼っていくため、店員が東子の横に来ても、胸肉が貼られるまでに時間がかかる。豚ロースは上段だったため、戦いは短時間で終わったが、胸肉はそういうわけにいかない。待っている間にも他の客が集まってくるのだ。
動悸が激しくなる。
店員が東子の横にやって来た。そして、店員の指先が上段から中段、そして下段へと移っていく。東子は、心の中でカウントする。『三、二、一』。
先ほどと同じテンポで鶏胸肉のパックを一つ手に入れた。
しかし、東子がパックをカゴに入れている内に、二つ目にシールが貼られ、紙一重の所で敵に先を越されてしまった。東子は、後悔と自分への憤りを感じた。
掴んだ右手のパックを左手に持ちかえるだけで、空いた右手はそのまま二つ目に手が伸ばせていたはずだ。
東子は、この屈辱を食パンの争奪戦に賭けることにした。七十八円の半額とは、一枚当たり七円弱の計算になる。
東子はパン売り場に移動する。そして、先ほどの失態を取る戻すため、完璧な舞いを舞うかのような無駄のない動きでパンをカゴに入れていく。
会計レジに並ぶ東子。アドレナリンは、急激に下がっているのが分かる。全力を出した疲労感と同時に達成感が体中に広がる。
東子の戦争は終わった――。