阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「駅舎にて」高橋徹
遠くに連なる山々を望む盆地の中ほどに一本の大きな桜の木があり、その陰に隠れるようにして小さな木造りの駅舎がひっそりと立っていた。
時折そよぐ風が満開の花を撫で、誘われるように舞い上がった花びらが駅舎の屋根を越えては消えていった。
そこに、夫婦とおぼしき年老いた二人が、ゆったりとした足取りでやってきた。
「毎日、ご苦労さんです」
顔見知りなのだろう、制服を身に着け竹箒で出入口の掃除をしていた駅員が手を止め、二人に声をかけた。それに腰を折って挨拶をし、二人は待合室の片隅にある古びたベンチに腰かけて息をついた。
ここには朝と夕の二便だけ、上りと下りの汽車がそれぞれやってくる。
駅員は腰のポケットから懐中時計を取り出して確かめ、竹箒を駅舎の板壁に立てかけると、改札口に立って声を上げた。
「ただいまより、下り一番列車の改札を行います。ご乗車の方は、切符をご用意ください」
待合室にいた数人が立ち上がり、改札へ向かう。だが、先ほどの二人は座ったままだった。
やがて、遠くから汽笛が聞こえてきた。
兵隊さんは、もうずっと座っておりました。
どのくらい永いあいだ座っているのか、それともついさっきからなのか、自分にもよくわかりませんでした。
遠い遠い国の、陽の光もほとんどとどかない深い森の中の大きな樹の根元に、あぐらをかくように座っておりました。
兵隊さんは、けがをしていました。そのせいか、足もとには黒い水たまりのようなものができておりました。
ずいぶん前に、ほかの兵隊さんとここまで歩いてきたのですが、痛みがひどくて立つこともできなくなり、ここに座り込んでしまったのでした。
兵隊さんの腕は、地面に垂れ下がったまま動きませんでした。
兵隊さんの脚は、しびれさえも感じませんでした。
兵隊さんの目は、かすんでもうほとんど何も見えませんでした。
でも、夢をみておりました。
夢の中で兵隊さんは、満開の桜の樹の下でおかあさんやおとうさんや妹たちと、お話しをしておりました。
「おにいちゃん、いつ帰ってくるの」
妹が聞きました。
「おう、もうすぐじゃ、もうすぐじゃ」
兵隊さんはこたえました。
「からだには、きいつけろ」
おとうさんが言いました。
「だいじょうぶじゃ、わしは、だいじょうぶじゃ」
兵隊さんは、大きな声でこたえました。
「つろうはないか」
おかあさんが、聞きました。
「つろうなんかない」
兵隊さんは、いっそう元気な声でこたえました。
そして、兵隊さんは口もとを笑ったようにしましたが、それきり動かなくなりました。
すると、どこからとんできたのか桜の花びらがひとひら、空から樹のあいだを縫うように舞いおりてきて、動かなくなった兵隊さんの右肩のあたりにとまりました。
淡い桃色をしたその花びらは、飛ばされもせず、落ちもせず、いつまでもそこにじっとしておりました。
ほどなくして、黒光りする汽車が煙を吐きながらやってきた。汽車は指定の位置に停止し、深呼吸をするように蒸気を吐き出した。
客車の扉が開いて、ふろしき包みを背負った男が一人降りてきた。男は駅員に切符を渡し改札を抜け、急いで駅舎を去っていった。
もう誰も降りてこないのを確認した駅員がプラットホームへ出て、胸ポケットから笛を取り出し右手を高く上げて大きく吹き鳴らした。
汽車は再び汽笛を響かせながら蒸気を吐き、重い腰を持ち上げるようにプラットホームを離れていった。
年老いた二人は立ち去る男の姿を目で追い、見えなくなってからも改札に目を移してしばらくベンチに座っていた。遠ざかる汽車の音に耳を澄まし、それがどんどん小さくなって、とうとう消えてしまうと、ようやく腰を上げ、駅員に頭を下げて、来た時とおなじようにゆっくりと駅舎を出ていった。
風がおこり、桜の花びらが舞った。
寄り添う二人の遥か遠くに見える山肌は、霞みがかった碧の中に、季節の移ろいを漂わせているようだった。