阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンの目」かく芙蓉
ある朝、いつものように動物園でキリンを撮影していると、キリンの目玉がボロンと落ち、コロコロと私の足元に転がった。私は仰天して、それを拾い上げる。黒くしっとりと濡れた、まぎれもないキリンの目玉だ。目玉が落ちた方のキリンのまぶたは、いびつにへこんでいる。
辺りを見回したが、周囲に人はいない。
とりあえず、早くキリンに目玉を返さないと……。そう思っていると、なんともう片方の目玉もボロリと落ち、こちらも私の足元に転がってきた。
どうしたものだろう。私は途方に暮れる。
その時、清掃用具を持った飼育員が、通りかかった。思わず呼び止める。
「ちょっと、君! キリンの目玉が……」
飼育員は、私の両掌にあるキリンの目玉を見て、「ああ」と小さくつぶやいた。
「捨てましょうか?」
飼育員はこともなげに言う。
「キリンに目玉を返さないと。あのキリンは大丈夫なのですか」
「お客さん、心配しなくていいですよ。またそのうち、生えてきますから」
飼育員は微笑んでそう言うと、足早に去っていった。
キリンの目玉というものは、生えてくるものなのだろうか。でも、毎日動物の世話をしている飼育員がそう言うのなら、そうなのかもしれない。
目玉を大切にハンカチに包み、家に持って帰ってきた。ところが、どう保存したものなのだろう。動物学者をしている友人が、標本をホルマリン漬けにすると言っていたのを思い出し、透明なグラスにキリンの目玉を二つ入れ、ホルマリンに浸した。
私は、長年しがない動物カメラマンをしているが、こんな経験は始めてだ。あのキリンは私にとって特別で、取材の用事がなくても、撮影に訪れていた。引き締まった体に、均等な茶色の斑、スッと伸びた首。とりわけ、私が心惹かれたのは、その目だった。黒く潤み、つややかで、優しく儚い。そしてその目を覆う、長く繊細な漆黒のまつ毛。キリンの全てが、魅力的だった。私は、毎日の記録として、写真におさめている。
しかし、これからは目の見えないキリンを撮影するのも気がひける。思案していると、ホルマリンの中のキリンの目が、くるりとこちらを見た。まるで、私に何か伝えたいことがあるかのようだ。
にわかに、私はキリンの見ている世界を見てみたいと思った。毎日、どんな景色を、この美しい目で見ていたのだろう。
私はキリンの目を、グラスから取り出し、まじまじと眺めた。ホルマリンに浸したのが良かったのか、光り輝いている。
「君の世界を見せてくれ」
私は自分の両目を取り外すと、キリンの目玉をそこに押しこんだ。最初はサイズが合わなかったが、格闘しているうちに、私のまぶたにキリンの目玉はすっぽりと収まった。
そのうちに、私は自宅にいるはずなのに、キリンになって、キリンが見ている世界を眺めていた。頭上のすぐそばを飛ぶ小鳥、近くに感じられる、空と雲。目の前には、かぐわしい花々を咲かせた木もあった。
「すばらしい。キリンの目に映る世界が、こんなにも美しいとは」
すると、何やら下方がさわがしい。そちらを向くと、自分に好奇の目を向ける群衆の姿があった。群衆はすぐに立ち去ったが、とりわけ醜い中年の男が、一人残っている。ボサボサの髪に、くたびれた服。その男は、カメラを構え、舌なめずりをして、下卑た目つきで私を眺めているのだ。
ああ、あの醜い男は私だ。
キリンは、私の醜い視線に耐えられず、目玉を落としたのか。
私は、キリンの目玉を取り外した。そして、静かにホルマリンの中に戻した。
私は、それから数日は動物園に行かなかった。しかし、キリンの目玉は次第に朽ちていき、ホルマリンの中で、塵のようになってしまった。私はキリンが心配になった。目玉が死んだ。あのキリンはどうなるのだろう。
私は、また動物園を訪れた。キリンは何事もなかったかのように、黒い瞳をそのまぶたにたたえ、のん気に餌を食べている。
「この間のお客さん? ほら、キリンの目は元に戻りましたよ」
飼育員が笑顔で、私に教えてくれた。
そうか、キリンの目はまた生えてきたのか。私は安心した。
またいつか、キリンの目玉が落ちることがあれば、その時は私の目玉を入れてあげよう。そうすればキリンは、自分の姿の美しさに、気づくことができるに違いないのだから。