阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンの寺」豆太郎
前の彼女が亡くなった。別れてから半年もたっていない。今の彼の車の助手席に乗っていて事故にあった。正面衝突。即死だった。葬式も終わって、だいぶ時間がたってから、思わぬ人から偶然に耳にした。
夜、となりに人の気配がする。彼女が寝ている。骸骨だった。八田は自分の悲鳴で目が覚めた。毎夜のように悪夢を見る。未練があるからだ。やりきれなかった。
大学院が冬期の休みに入った。八田はこの機会に、友人の漆畑の浄福寺を訪れることにした。少し、気持ちを落ち着ける必要があった。以前から誘われていた。
漆畑からは「いつ来てもいい」と言われている。ハガキ一枚を出しただけだった。
漆畑は浄土宗の浄福寺の跡取りとして、仏教系の大学に進学した。八田は仏教哲学を学びたいという漠然とした思いしかなかった。
迎えたのは、小坊主ひとりだった。漆畑の弟である。黒い瞳が、大きくやさしい。聡明な光をたたえていた。首が長い。手足も長い。成長期なのだろう。八田はキリンを連想した。雪国の少年らしく肌が白い。美少年だった。ふとしたときに見せる動作のしなやかさや、長いまつ毛の流し目が、漆畑と生き写しだった。十二歳。八田とは、十四はなれている。
「急な会合の用事が入って、京都に行かなければならない。待っていてほしい」という旨の兄の手紙が残されていた。几帳面な文字が、大学時代と同じだった。創建七百年を経た地方の大きな寺をあずかる身としては、いろいろと多忙なのだろう。
「兄が帰るまで、ゆっくりとお待ちください。」弟はしっかりした声であいさつした。
八田の来た晩から大雪となった。一日に一メートル。三日で三メートル。寺は雪の中に埋もれた。黒谷山の中腹にある浄福寺は、ふもとの村との交通が途絶した。
少年はいささかもあわてなかった。「米、塩、味噌のたくわえは、たっぷりとありますから。」朝になると、本堂から読経の澄んだ声がきこえた。父母はとうにないという。ふたりきりの世界だ。
夜は静かだ。八田が自分にあてがわれた部屋に入ると、何の物音もしなかった。雪はすべての音を飲み込んでしまう。読書には好都合だった。
八田の目は文字を追い駆けながら、からだはいつのまにか夢の中にいた。京都の寺で、彼女の髪に蜘蛛の巣がまとわりついた。とってくれ。そう頼まれた。一本、一本、はずしていった。とっても、とっても取りきれない。やがて蜘蛛の糸に血がにじんだ。髪が抜けている。地肌が剥げている。頭蓋骨が見えた。また自分の声で起きた。この清らかな土地に来ても、思い出はまとわりついてきた。
寺では風呂を、三日に一度、炊く。薪から炊く。納屋の脇に積み上げられている薪を、雪をくずして運んでくる。古新聞を乾燥させた木の枝で、火をつける。竹の筒で吹いて空気を送りこむ。八田は、自分にまかせてもらうことにした。なにか仕事をしていないと、時間をもてあましてしまう。漆畑はまだ帰ってこない。
自分が沸かした湯に入るのは極楽だ。からだが冷えている。温かさが沁みた。手足がしびれる。五右衛門風呂の中で浮いたような気分になる。
少年が湯殿に入ってきた。白い湯気の中に日に焼けたキリンの裸身が、しなやかに浮かんだ。腰に手ぬぐいを乗せている。「お背中を流しましょう。」力が強かった。肩を揉まれた。ひどく凝っていた。少年の長い指が、ツボに入った。思わず声が出た。
背中だけでも良いというのに、前も洗うという。「足を。」少年の前で、仁王立ちの態勢になった。笑われた。禁欲が続いている。からだが反応した。「今度は、君だ。」八田は、恥ずかしがる少年の手ぬぐいを、力づくで剥ぎとった。興奮のしるしがあった。少年の白い指がのびてきた。
どちらからそうしたのだろう。その夜は、床をともにした。八田のからだの下で、キリンが天に翔けた。
彼の兄からも、誘われたことがある。八田は彼女がいたから要求を拒んだ。漆畑の気持ちを傷つけてしまった。が、彼からは「これからも友だちとして、つきあいたい。」と、さわやかに宣言された。それを了承した。
目覚めると少年の姿はなかった。兄弟はひどく似ていた。腋の下に兄と同じ三つの黒子があった。昨夜は、めずらしく彼女の夢を見なかったことに八田は気付いた。雪はしんしんと深かった。