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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「彼岸へ」宮本享典

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第50回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「彼岸へ」宮本享典

おれはトイレで用をたして、便座に座ったまま水を流すと、おれも一緒にトイレの中へ流されてしまった。

トイレの排水溝内はとても窮屈で、狭くて汚いなかをごぼごぼと音をたてて流された。真っ暗な排水管の中はいやに湿っぽくて生暖かく、ときおり曲がりくねり、そのたびに頭や肩を打ち付けてしまった。おれは流れに逆らおうとしたが、なんせ狭くて手足の自由がきかない。こういうときは咄嗟の機転がものをいうのだが、なんせトイレで用を足していたときのことである。入浴中とトイレはぼんやりと気がぬけているが当然である。おれは不意打ちをくらったようなものだ。いま何をすべきかを判断するよりも、慌ててしまったのだ。口の中に排水が入りそうになる。おそらく全身がびしょ濡れだろう。おれは「あっ」とか「うおっ」とか言葉にならない言葉を発し、頭をそこらじゅうにぶつけながら真っ暗な排水管の中を落下していった。ああ、おれはこのまま死んでしまうのだろうか、とふいに思った。トイレで死ぬ? 勘弁してくれ。あまりにも惨めすぎる。おれの遺体の第一発見者は驚くだろうな。トイレ詰まりの原因は、排水管に詰まっていた男が原因でした。なんて配管工が報告するのだろうか。

おれは垂直に落下してまた頭を打った。そこらかは排水管は水平にのび、排水の流れも緩やかになった。おれは排水の流れに促されるまま、ずるずるとゆっくり流れにのっていった。

ごぼっという音とともに排水管の外に出た。どうやら無事に排水管を通り抜け、下水溝に出たらしい。下水溝? いや、違うな。そこは南国の海の中のようにエメラルドグリーンに光彩が輝き、頭上からは幾筋もの黄色い光条が降り注いでいる。どこまでも透明で果てしなく広く、光に満ちている。水中にいるはずなのに呼吸ができる。おれはあたりを見渡した。魚はいない。それどころか動くものが無い。底が見えず、果てしなく深い。手足を動かしてみると、やはり水中にいるように、ゆっくりとしか動かせない。おれは光のさすほう、上へと泳いでみることにした。そのとき、誰かが耳元でささやいた。「ああ、そっちへ行ってはいけない。黄色い光は畜生道へ続いている」。誰だ? おれは振り向いて声の主を探したが誰もいない。辺りは静かに光が揺らめいているだけである。おれは逡巡した。チクショウドウってなんだ? この光の世界はなんだ? しばらくの間、おれはぷかぷかと水中を漂ってみた。水の流れもない。暑くもない。寒くもない。むしろ心地よい暖かさがある。どこの方向へも泳いでいける。そんな身体の自由が快い。底のほうまで光が差し込んでいるが、一点だけ赤く光る場所がある。よく見ると微かに光るだけで僅かに明滅している。何だろう。おれはゆっくりとその赤い光に引き込まれていった。「ああ、そっちへ行ってはいけない。赤い光は餓鬼道へ続いている」。まただ。謎の声が警告を発した。おれは咄嗟に振り向き辺りを見渡したが誰もいない。赤い光へ近づくにつれ、水温が下がっているように感じる。おれは不意に嫌な予感がして、その赤い光から遠ざかった。どうも謎の声の主はおれを何処かへガイドしようとしているらしい。しかし、誰なのだろう。そもそもここはどこだ? おれはまた泳ぎだした。柔らかい光をうけながらの水泳は楽しい。水が衣服にまとわりついて少々泳ぎづらいが、どこまででも泳ぎ続けられる気がした。常世というものがあるなら、きっとここのことだろう。ふと我に返ると、おれは世俗の娑婆苦にどっぷりと漬かっていた気がする。翻ってここはどうだ。明鏡止水とはよく言ったものだ。一切が均一で光が揺らぐ仙境じゃないか。仕事も家庭もどうでもよい。ただただ平穏に微笑んで時が過ぎていく。おれは泳ぎに夢中になった。こんな平和な時間がもっと長く続くようにと願った。

「あなた、あなた」と声が聞こえる。声は前方の緑色の光からする。妻の声だ。妻もここにいるのか? おれはその緑色の光のほうへ泳いでいった。「ああ、そっちへ行ってはいけない。緑の光は輪廻の輪に戻ってしまう」。また謎の声だ。できることならこのまま仙境で遊んでいたい。妻に会いたい気持ちも無いではないが、おれはふらりとしていたんだ。おれは緑色の光を避けるようにして泳いだ。何か、今までの生活とも縁を切ったような気がした。あれをしたいだとか、これが欲しいだとか、そんなことはどうでもよくなった。何も持たないことが、とびきりの自由であるとさえ思えた。自由とは何も無い平穏な孤独のことなんじゃないかとすら思えた。そう、おれは自由になりつつあるんだ。謎の声がおれを導いてくれるんだ。一切を捨てて先へ進もう。もう娑婆苦とはおさらばだ。そしてこのまま泳ぎ続け、彼岸を目指そうじゃないか。