阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「或る国で」芳
駐機場で飛行機のドアが開くやいなや、私は、ボーディングブリッジを盛大に揺らして一目散に走った。空港ターミナルビルに踏み入り足元が安定したのも束の間、緩やかな下りスロープをもつれる足で、走った。トイレに、である。
飛行機が此の国の最も大きい空港に着陸した時、腹が痛くなった。着陸態勢に入る前にも痛くなったのだが、窓際の自席から隣二人の膝上を通り抜けるのが億劫で、つい痛さをうっちゃってしまった。やはり機内でトイレに行っておくべきだった。後悔しても遅い。手のひらにじりじりと脂汗をかいている。
下りスロープから矢印に従って左に曲がり、だだびろい通路を、トイレを探しながら走った。
空港というごく一般的な建物なのだから、トイレくらいすぐ見つかるだろうと期待していたのだが、これがなかなか見つからない。
やがて通路の脇の陰に、何の標識もマークもないが、二方向の小さな入口が見えた。
これこそお馴染みのトイレ!助かった!
ところが、入口の前で、私ははたと立ち止まった。二方向の入口には、それぞれ人の顔の写真パネルが掲げてあった。トイレモデル、とでも言うのだろうか。初めて見る趣向だが、そのトイレモデルが男女を示していることは分かった。が、トイレモデルが男なのか女なのか、いまひとつ判然としない。
どっちに入るべきか……?当たり前過ぎて、日頃考えもしない問題を突き付けられて、便意も一時停止した。
微笑んでいる二人のトイレモデルを眺めた。此の国の人々特有の、濃いくっきりした目鼻立ちのせいか、どちらも甘い雰囲気だ。髭はどうか?どちらもかなり毛深い割に肌はつるんとしていて、髭の有無がよくわからない。それにどちらも髪は微妙に襟足付近が長い。一方は黄色のシャツ、もう一方はオレンジのシャツを着ており、これも微妙。
こんなことってあるのかな?トイレは男か女か、どちらかだろう。
復活し始めた便意の陰で、いつもの理性が残っており、別のトイレを探すことにした。
違う方に入っちゃったら恥ずかしいし。
三つの駐機スポットを通り過ぎた通路脇に、二方向の小さな入口があった。入口にさしかかると、やはりトイレモデルのパネルがあり、やはり微妙だった。シャツの色が青と緑に変わっていただけだった。
何となく嫌気がさして、また別のトイレを探した。さらに三つの駐機スポットの先の陰に、
二方向の小さな入口があった。まさか、と言うか、やはり、と言うか、ここでもトイレモデルが微笑んでいた。今度は、赤のシャツと紫のシャツだった。
誰だ、こんなトイレ作ったのは……?そろそろ腹の具合が風雲急を告げている。歩くたびに腹が刺激される。恨めしい気もやまやまだが、仕方ない、ここは用足しが先決だ!
いつもの理性にはとりあえず蓋をすることにして、次に見つけたトイレに入る決心をした。
飛行機の乗換客を案内する看板の先に、二方向の小さな入口、トイレモデルが微笑む入口を見つけた。
ここは用足しが先決だ!
白のシャツのモデルと、黒のシャツのモデルのうち、ちらっと目に飛び込んできた白のシャツの方に思い切って入ってみた。中はすべて、薄いグレーの壁で仕切られた個室だった。一番近い個室に飛び込み、ドアを閉めて、座って用を足した。
やれやれ……。
出すものを出してしまうと、周りを見回す余裕も出てきた。手を洗いつつ、蛇口の鏡にふと目をやると、はっとした。トイレに入ってくる人、出ていく人、手を洗っている人、そういった数人が静かに行き交っているが、男なのか女なのか、よく分からないのだ。背の高い人もいれば低い人もいるが、皆、男とも女ともつかない。いや、よく見たらスカートをはいたり、胸のふくらみが大きかったり、髭を生やした人がいたかもしれない。が、自分の目のフィルターが外れてしまったのか、そういう区切りがぼやけてしまっている。
不意に口元がほころんだ。
まあ、どちらでもいいじゃないか。どうせ向こう側のトイレも全部個室になっているのだろうし、どっちがどっちでもいいじゃないか。
それならなぜトイレを二つに分けておくのか?此の国に来た訪問者への、ちょっとした洗礼といったところか。
右手首の腕時計を見た。此の国に着いてから二十五分。ところで私はどっちなんだっけ?
私は、軽い足取りでトイレを出て、空港の出口に向かった。