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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「トイレの水」林慶次

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第50回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「トイレの水」林慶次

「まったく、オンナってやつは」

三面鏡の前に並んだ瓶を指先で弾きながら、オトコはそういう。情事の後だというのに情緒もないのはオトコの得意技だ。

「オー・デ・コロンにオー・ド・トワレ、オー・ド・パルファン。なんだぃ、オー・ド、オー・ド、オー・ド」

「eauはフランス語で水のことよ。あんたがよく飲むウヰスキーだって、オー・ド・ヴィーって二つ名があるの、知らないの?」

「知ってるさ。オー・ド・ヴィー、命の水。詩的で、いかにもウヰスキーに相応しいじゃないか」

「はいはい」

「ところがどうだい、オー・デ・コロン。ケルンの水。なんだよ、ケルンの水って。ケルンってドイツの地名だろ」

「ケルンに住んでるイタリア人が最初に作って売り出したから、そう呼ばれるようになったのよ」

「オー・ド・トワレなんかトイレの水だ。トイレだよ、トイレ。おまえトイレの水を顔にペチャペチャつけてんの。あー、やだやだ」

オンナもそこでプチンときた。

「全く、これだから。無知なオトコは」

「なんだよ無知って。自分だってムチムチしてるくせに」

「あんたが言ってるトイレっていうのは、お手洗いのことでしょ」

「そうだよ。便所のことだよ。オー・ド・トワレは便所水ってことだろ。そういや昔、夏に公園に行くと、自転車でひやしあめ売ってるおっさんがいたけど、うちじゃあれは公園の公衆便所の水使ってるからって、買ってもらえなかったな」

「あのねえ」

オンナは呆れて二の句が継げない。

「トイレっていうのはね、お便所のことじゃないの。もちろんそう言う意味もあるけど、元々は化粧を指す言葉なの。お便所のことも日本語でトイレって言っちゃうけど、英語でトイレって言ったって通じないんだから」

「知ってるよ。WCってんだろ」

「それはWaterClosetじゃない。そうじゃなくて、ToiletRoom。ちゃんとルームってつけないとお便所の意味にはならないの。でも、日本語でも化粧室とも言うでしょ。そのまんまじゃない。化粧するから化粧室」

オンナの追撃が始まった。

「あんたみたいな知ったかぶりのバカがいるから困るのよ。ウィンナ・コーヒーにはソーセージが載ってるとか言い出すクチでしょ」

「あ、小学校の時、そんなこと言ってたな」

「まさか、今でもそう信じ込んでるわけじゃないでしょうね」

「まさか」

「じゃ、ウィンナ・コーヒーって、どんなのか言ってみなさいよ」

「ソーセージをスプーンかマドラー代わりにしてるやつだろ」

「バカ。なによそれ」

「だって、信州かどっかに葱蕎麦ってあるじゃん。葱を箸代わりにする蕎麦」

「あのねぇ」

オンナは頭を抱える。自分のオトコがこんなにバカだったなんて。

「ウィンナ・コーヒーって言うのは、ウィーン風のコーヒーっていうこと。もっと言うとウィンナ・ソーセージだって、ウィーン風のソーセージだからね」

「へぇ、そうなの」

「だからと言って、ウィーンに行ってもウィンナ・コーヒーもウィンナ・ソーセージもないからね。あれ和製語だから。ウィーンでウィンナ・コーヒーに近いのはメランジェ、ソーセージはブルストだから」

オトコはもう反論する気力もない。

「まさかあんた、ロシアンティーだとか言って紅茶にジャム入れてみたり、ナイフとフォークで食事する時ご飯をフォークの背に盛ったり、パスタ食べる時にスプーン使ったりしてんじゃないでしょうね」

追撃は留まるところを知らない。論点の飛躍はオンナの特権だ。

「そうだよそうだよ。ぜぇんぶそうだよ」

オトコは居た堪れなくなって席を立った。

「ちょっと、どこ行くのよ」

「おれ、と、トイレ・・・」

その瞬間、オンナは別れを決意した。