阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「トイレの水」林慶次
「まったく、オンナってやつは」
三面鏡の前に並んだ瓶を指先で弾きながら、オトコはそういう。情事の後だというのに情緒もないのはオトコの得意技だ。
「オー・デ・コロンにオー・ド・トワレ、オー・ド・パルファン。なんだぃ、オー・ド、オー・ド、オー・ド」
「eauはフランス語で水のことよ。あんたがよく飲むウヰスキーだって、オー・ド・ヴィーって二つ名があるの、知らないの?」
「知ってるさ。オー・ド・ヴィー、命の水。詩的で、いかにもウヰスキーに相応しいじゃないか」
「はいはい」
「ところがどうだい、オー・デ・コロン。ケルンの水。なんだよ、ケルンの水って。ケルンってドイツの地名だろ」
「ケルンに住んでるイタリア人が最初に作って売り出したから、そう呼ばれるようになったのよ」
「オー・ド・トワレなんかトイレの水だ。トイレだよ、トイレ。おまえトイレの水を顔にペチャペチャつけてんの。あー、やだやだ」
オンナもそこでプチンときた。
「全く、これだから。無知なオトコは」
「なんだよ無知って。自分だってムチムチしてるくせに」
「あんたが言ってるトイレっていうのは、お手洗いのことでしょ」
「そうだよ。便所のことだよ。オー・ド・トワレは便所水ってことだろ。そういや昔、夏に公園に行くと、自転車でひやしあめ売ってるおっさんがいたけど、うちじゃあれは公園の公衆便所の水使ってるからって、買ってもらえなかったな」
「あのねえ」
オンナは呆れて二の句が継げない。
「トイレっていうのはね、お便所のことじゃないの。もちろんそう言う意味もあるけど、元々は化粧を指す言葉なの。お便所のことも日本語でトイレって言っちゃうけど、英語でトイレって言ったって通じないんだから」
「知ってるよ。WCってんだろ」
「それはWaterClosetじゃない。そうじゃなくて、ToiletRoom。ちゃんとルームってつけないとお便所の意味にはならないの。でも、日本語でも化粧室とも言うでしょ。そのまんまじゃない。化粧するから化粧室」
オンナの追撃が始まった。
「あんたみたいな知ったかぶりのバカがいるから困るのよ。ウィンナ・コーヒーにはソーセージが載ってるとか言い出すクチでしょ」
「あ、小学校の時、そんなこと言ってたな」
「まさか、今でもそう信じ込んでるわけじゃないでしょうね」
「まさか」
「じゃ、ウィンナ・コーヒーって、どんなのか言ってみなさいよ」
「ソーセージをスプーンかマドラー代わりにしてるやつだろ」
「バカ。なによそれ」
「だって、信州かどっかに葱蕎麦ってあるじゃん。葱を箸代わりにする蕎麦」
「あのねぇ」
オンナは頭を抱える。自分のオトコがこんなにバカだったなんて。
「ウィンナ・コーヒーって言うのは、ウィーン風のコーヒーっていうこと。もっと言うとウィンナ・ソーセージだって、ウィーン風のソーセージだからね」
「へぇ、そうなの」
「だからと言って、ウィーンに行ってもウィンナ・コーヒーもウィンナ・ソーセージもないからね。あれ和製語だから。ウィーンでウィンナ・コーヒーに近いのはメランジェ、ソーセージはブルストだから」
オトコはもう反論する気力もない。
「まさかあんた、ロシアンティーだとか言って紅茶にジャム入れてみたり、ナイフとフォークで食事する時ご飯をフォークの背に盛ったり、パスタ食べる時にスプーン使ったりしてんじゃないでしょうね」
追撃は留まるところを知らない。論点の飛躍はオンナの特権だ。
「そうだよそうだよ。ぜぇんぶそうだよ」
オトコは居た堪れなくなって席を立った。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「おれ、と、トイレ・・・」
その瞬間、オンナは別れを決意した。