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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「血闘」出崎哲弥

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第49回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「血闘」出崎哲弥

《香》で飲むから付き合えと「親父」から言われた。《香》は銀座のバー。若い愛人、香さんに「親父」が持たせた店だというのは、公然の秘密である。「親父」は正装していた。いつも飲みに行く格好ではない。もしやオレと対決するつもりでは……。紋付袴を見た瞬間に走った予感は、的中した。

「ネタは上がってるんだ」

オレと香さんがそろってとぼけるのを見届けてから、「親父」は証拠を出した。ボックス席のテーブルに写真を並べていく。興信所が密会現場を押さえたものだった。コトを終えたオレと香さんが、肩を寄せ合ってラブホテルを出るところが、鮮明に写っている。

香さんは、突然顔を手で覆って泣き声をあげた。

「ごめんなさい。私さえ、私さえしっかりしていれば……」

自分に責任はないとでも言いたいのだろう。誘惑してきたのは彼女の方だと、どれだけ訴えても、これでは信用してもらえそうにない。

「恩を仇で返すとは、まさにこのことだ。人の女に手を出して、ただで済むとは思っていないだろうな。さあ、表へ出ろ」

「親父」は顎をしゃくった。

確かに「親父」には恩がある。実の父親ではない。兄貴分、弟分、出入りの誰もが「親父」もしくは「親父さん」と呼んでいる。生まれついて天涯孤独のオレは、十五の時から住み込みで「親父」に面倒を見てもらってきた。「親父」と呼べる人間は他にいない。

十年前、中学もろくに行かずに、オレは施設を飛び出した。あちこちうろついては、ちょっとでも強そうな相手を見つけて勝負を挑んでいた。力こそが正義だった。オレに叶う者は誰もいなかった。「親父」と出会うまでは。

オレがこれでもかと次々繰り出す攻撃は、いともたやすくかわされた。手詰まりになったところを、待ち構えていたように一撃で勝負を決められた。オレは悔し涙をこぼして「親父」の前に這いつくばった。

「お前には見所がある。俺に付いてこい」

圧倒的な強さに畏怖して、オレは「親父」の言葉に従った。屋敷では、掃除、洗濯から始まって、ありとあらゆる雑用を言いつけられる日々が待っていた。返事は「はい」しかなかった。オレはひたすら辛抱した。いつか「親父」を屈服させる。その思いを胸に。

《香》を出ると、「親父」は黙って路地裏へと入っていく。奥の行き止まりを背中に、向き直った。

「俺とお前、やるかやられるか。それだけだ」

「親父」は懐手で宣言した。まだ還暦を過ぎたばかり。低い声には張りがある。

やるかやられるか――何度「親父」の口からその言葉を聞いたことだろう。実際、命を賭けた闘いを「親父」は若い頃から重ねてきている。くぐってきた修羅場の数では、オレは足元にも及ばない。

一対一で決着を付けようというのが、いかにも「親父」らしい。こんな形での対決は不本意だった。しかし、香さんとそうなった時点で、覚悟を決めていた気もする。やるしかない。

「来いや、ゲス野郎」

つばを吐き捨てて、「親父」は懐から手を抜いた。刃物でも飛び出すかと身構えたが、素手だった。考えてみれば、そんな卑怯な真似、「親父」のプライドが許すはずはない。

自分から先に仕掛ける気はないらしい。鉄壁の守りで相手の攻撃をしのぐ。一瞬の隙を見逃さずに、攻撃に転じて一気に仕留める。自分の形をここでも貫こうというのだろう。

オレには「親父」の戦法は性に合わない。相打ち覚悟でどこまでも攻め続ける。それしかなかった。

「親父」の構えは、どこから見ても隙だらけ、様になっていない。それだけにかえって不気味だった。わざと誘っているのかもしれない。カウンター狙いか。いや、だからといって気後れしてはならない。オレは目をつぶって右ストレートを打ち込んだ。

確かな手応えがあった。

初めて人を殴った。思ったよりも硬い感触だった。目を開くと、尻餅をついて顔を歪めた「親父」の鼻腔から血が流れている。

「こん畜生ーっ!」

肩を軸に、拳を握った両腕を交互にグルグル回しながら、「親父」は反撃してきた。滑稽だが、笑う余裕はない。

そこからは揉み合いになった。けれど、接近しすぎて、何をどうしていいやら分からない。「親父」も同様らしい。口では「死ね」「死ね」と威勢がいいが、肝心の手足は、バタバタ無駄な動きを繰り返すだけだった。

騒ぎを聞きつけて、野次馬が集まってきた。

「おいおい、将棋の藤堂永世竜王と弟子の吉永八段がケンカしてるって?」