阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「自然な姿」白浜釘之
「空耳ってあるじゃないですか」
彼はいきなり切りだしてきた。
「ああ、呼ばれてないのに呼ばれている気がして振り向いたけど誰もいなかったっていうあれだろう?」
私は彼を刺激しないように慎重に言葉を選んだ。
「ええ……何というか、あのような感覚が頻繁に起こるんです」
「具体的には?」
「たとえば、見えるはずのないものが見えたり、そこにないものの匂いを感じたり……」
「さしづめ『空目』に『空鼻』といったところだ」
私はなんとか軽口を叩いて彼の樹を紛らわせようとする。
「空いっぱいに人の顔が見えたり、ひどく懐かしい花の匂いを嗅いだり……ここには花なんて咲いていないのに」
彼は不安げな様子で私の顔を見つめる。
「……今度、あの辺りに花を植えるように言っておこう。あまりに殺風景だからせめて花の匂いだけでも思い出そうとしたのかもしれないからね」
嗅覚は人間の記憶と深く結び付く。気を付けなければいけない。私は彼の記憶をあまり刺激しないように会話を続ける。
「それに、皮膚をこう撫でられるような感覚を感じることもあります。なんだか幽霊に撫でられているようで、気味が悪いです」
「神経が過敏になっているんだろう。気にすることはない。しかし幽霊とは古風な表現だね。君は宗教なんか信じる方なのかね」
「……そんなに敬虔な信者ではありませんが、死んだあとも魂が存在する、なんてことはあるのかな、とはぼんやり思ってます」
こんな場所で宗教を信じるのは場違いな気もするが、魂の永続性や大きな存在に守られている感覚などは彼のような存在にとってプラスに働くこともあるだろう。反対に死後の世界への強い憧れや宗教への強い異存はかえってマイナスにも作用するかもしれない。
「それはそうと、いつまでもこんな場所に閉じこもっているのも退屈じゃないかい?
空耳や空目みたいなのも、無意識に何か刺激を求めているのかもしれないぞ」
私はさりげなく話題を変える。
「そうですね。だけど、別に何かをしたいとか、どこかに行きたいとかは思いません」
彼の言葉に私は軽い失望を覚えたが、それでも、
「そうか……しかし、たとえば華やかな場所に出てみると考えも変わるかもしれないぞ」
と彼に促してみる。
「いえ、何だかここの外は怖くて……」
「まあ、無理にとは言わないが……」
私は意を決して言ってみることにした。いつまでもこの状態でいたとしても、事態は好転しないことは、過去の経験から実証済みだった。
「実は、ご家族が君に会いたがっているんだが、この場所では君と合わせることができない。君が『世界』に出てくれないと……」
「家族……」
彼は怪訝そうな顔をしてしばらく考えていたが、やがて、
「僕には家族がいたんですね。でも会うべきではない、という思いが僕の内側から起こっているんです。それどころか、僕自身がここにいるべきではないと……」
彼はそう言って、急速にその存在を失いはじめた。
「危険です。彼から離れて下さい」
私の耳元で囁く声がした。私はやむなく彼に話しかけることを断念し、回線を閉じた。
「被験者、データ消失」
助手が小声で実験の失敗を告げる。
「また失敗か……」私は呟いた。
「ですが、疑似的にですけれど今回の被験者は五感を取り戻していたじゃないですか。
死者の脳内データを取り出し、疑似空間に存在させ、生きている家族と共存させるというこのプロジェクトの、小さな、しかし確実な前進といってもいいんじゃないですか」
「いや」
私は興奮気味に話す助手の言葉を否定した。
「何十人もの死者と対話してみてわかったことだが、どんなにこの世界に未練があってもやはり彼らはこの世界にいるべきではないと本能的に感じているのだろう。データだけになっても決して広い情報空間に出ようとはせず、まるで天に上るように消失してしまう」
彼が事故で亡くなる直前まで彼の顔を覗き込んだり、彼の体をさすっていた家族の姿を思い出す。ヴァーチャルな世界で彼が感じていた感覚はきっとその時のものなのだろう。
家族の失望を思うと胸が痛むが、しかし彼の魂を機械に閉じ込めておくことはできない。
私は窓外の青い空を眺めた。
「肉体は上へ、魂は空へ……それが人間の死の自然な姿というものなのだろうな」