阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「現在の空は」安藤一明
この数年、毎日の仕事に追われたせいで、空をじっと眺めたことなんてなかった。
日曜日。俺は妻の作ってくれた朝ご飯を食いながら、ふとそんなことを思った。
今日は公園をぶらぶら散歩でもしながら、空をじっくりと観察してやるか。
そんなことを考えて箸を動かしていると、五歳になる息子がベランダから駆け込んできた。
「ねえ、パパ。僕、すごいものを見ちゃった」
「すごいもの?」
「うん。真っ黒い鳥が空を飛び回っていたの。まだいるよ、きっと」
「そりゃきっとカラスだな」
「カラス?何それ?」
そういえばカラスなんて、もうずっと見ていないような気がする。
俺は息子といっしょにベランダに出てみた。
確かに上空には二羽のカラスが宙を自由に舞っている。ツガイだろうか。
それにしても最後にカラスを見たのはいつだったか?記憶があいまいだった。おそらく、四、五年は前だっただろう。
鳥という生き物の記憶が俺の中でぼやけている。鳩もスズメだってろくに見ていない。
息子は生まれて初めて見るカラスという生物に興奮して息を荒くしていた。
俺はリビングのソファで横になった。テレビもつける気がしないし、新聞も読みたくない。
息子はまだベランダで顔を上に向けている。そのまま、上空を指差して叫んだ。
「パパ、あれ!」
「なんだ、今度は?」
空を舞っていたのは飛行機だった。といっても俺も飛行機を見たのは初めてに近い。
俺の親父が子供の頃は、飛行機なんて珍しくなかったらしいが。
見たところ、かなり古い型の飛行機だとわかる。
「実にクラシックな奴だな」
「クラシック?音楽のこと?」
「いや、あの飛行機って乗り物のことさ。ありゃきっと自家用機だろう」
「ジカヨウキって何?」
そうか、自家用機がわからないのか。無理もない。
俺は少しばかり説明してやった。息子は父親の博識に感心している。少し鼻が高かった。
そのまま、俺は息子としばらく空を見上げていた。
妻が俺の部屋に来て、夕飯の仕度ができたわよと言ってきた。
俺はテーブルについた。息子の姿がない。また勉強もせずにゲームをやっているのか。
「あれ、あいつは?」
「また空を見てるみたいなの。いい加減に勉強するように言ってちょうだい」
息子は、またしてもベランダにいた。今度は薄暗い中、図鑑を開いている。
「おい、何を調べてるんだ」
「ツキだよ、ツキ。パパが子供の頃には夜の空には『月』があったんでしょ」
「ああ、そうだ」
確かに昔、空には月という名前の衛星が浮かんでいた。しかし、もう月を見ることはない。
夕飯の乗ったテーブルのそばのデジタルカレンダーには「2081年7月」の文字。
約三十年前、地球に溢れかえった人類は、新しい移住先として地球から二光年ほど離れた惑星を選んだ。つまり、この星のことだ。
新しい住居となった惑星の空には、太陽によく似た恒星もあったが、月の代わりとなるものはなかった。
昼間、この空は黄緑色をしている。そして、夜になると、ほぼ黄色のみが空を覆い尽くす。
2052年ごろに、この惑星にやってきた俺の親父は「気味が悪いから空なんて見たくなかった」などと言っていた。それには俺も同意だ。
親父がガキだった頃の夢は、人間が何も使わずに空を自由に飛び回ることだったらしい。
俺は砂漠が広がっているような果てしない夜空を見上げた。この空のずっと向こうには、天国というものが存在するのだろうか。
空というものは実に不思議に思える。
この惑星のどこにでもあるのに、誰も大切に思わない。同時に、人は空という何もない空間に奇妙な憧れさえ抱く。
今、親父が笑っているであろう天国という場所を探して、俺は不気味な色の空を見上げた。
そこには緑豊かな地球と違って、星一つ輝いていなかった。