阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「幸福」伊丹秦ノ助
「……九、十」
数え終わって、目を覆っていた手を外す。公園の入り口から怪訝そうにこちらを窺う、どこぞの太ったマダムと目が合った。俺が軽く会釈をすると、マダムは嫌なものを見たというようにそそくさと去っていった。
まったく、どうして四十五にもなって、小学生の息子の缶蹴りに付き合わされなくちゃならないんだ。足元に屹立するフカヒレスープの空き缶を見て、思わずため息が漏れた。
修平は俺に似て友達の輪に入るのが苦手だ。休日も俺と二人で遊びたがる。缶蹴りは普通三人以上でやるものだが、そんなことはお構いなしだ。そして鬼はいつも俺と決まっている。まったくもってフェアじゃない。
さて、修平はどこへ隠れたろう?といっても、この公園に修平が隠れられそうな場所は一つしかない。砂場の奥にある、ピンクのカバを象った大型遊具だ。それは中が空洞にくりぬかれ、いくつもの穴があいている。その穴のひとつから、俺が修平に買ってやったトレーナーの裾が見えている。自分では上手く隠れたつもりらしく、俺がそっぽを向いて缶を蹴っ飛ばせる機会をうかがっているらしい。我が子ながら情けない。
だが、全然見当違いな場所を探す演技をするほど俺も優しい父親ではない。だからだいたい空き缶の前に突っ立ってぼんやり考え事をしているのだが、修平はそれで充分満足らしかった。一度楽しいのかと聞いてみたことがあるが、逆にお父さんは楽しくないの、と世にも珍妙な生物を見るような目つきと共に問い返された。つくづく変わった子である。
そんなわけで俺は今日もじっと空き缶を眺めていた。そろそろ「ふかひれ」の文字が頭の中でゲシュタルト崩壊を起こしかける頃、ふと、何か聞こえたような気がした。
空耳かと思い直してじっとしていると、しばらくしてまた聞こえる。今度のはもう少しはっきりしていた。それは人の会話のごく一部だと思われた。「……でしょ」「……んだ」一つは甲高い子供の声、もう一つは大人の男の声だ。俺はよくよく耳を澄ませた。驚くべきことに、その会話は、空き缶の中から聞こえてくるのであった。
「どうして外に出ちゃいけないの」「何度も言っているだろ。危険だからだ」「こんな暗いところ、早く出て遊びたいよ」「だめだ」「お父さんは外は危険だって言うけどさ。ここだって危険なことに変わりはないでしょ。いつ吹っ飛ぶかもわからない」「それでも外に出るよりはマシさ」
俺はしゃがみ込み、ぼりぼりと顎を掻いた。頭の中にはあるイメージが浮かんでくる。そこは真っ暗で、水たまりだらけの床にはフカヒレの残骸が浮かんでいる。ぴちゃぴちゃ音をたてながら、退屈そうにケンケンパをする少年は、修平と同い年くらいだろうか。冷めきった壁に寄りかかって、息子の様子を黙って見守る父親。息子は外で遊びたいと言い、父は言葉少なにそれを禁ずる。
きっと、あんまりぼうっとしすぎたせいで、こんな幻想を創り出してしまったんだろう。当たり前だ。空き缶の中に住んでいる家族なんて、いるわけがないのだから。
親子の会話は続いている。
「お父さんは外に出たことがあるの」「あるとも」「どんなところだった?」「嫌なところだ」「ここよりも全然明るいのに?」「明るいからだよ。見たくないものまで目に入る。暗いほうが良いんだ」「でも母さんは出ていったよ。外の世界のほうが楽しいからって、言ってたよ」「母さんも今頃は後悔しているさ」
父親がそう吐き捨てるのを聞いて、違う、と俺は直感した。違う。そうじゃない。この父親は、ちっとも外を恐れても、嫌悪してもいないのだ。ただ息子を手元に置いておきたいだけなのだ。
修平のことを考えた。俺は非社交的なあの子の性格にどこか安堵を覚えてはいないだろうか。学校で友達を作らないことを親心に案ずるフリをしながら、この何でもない、ただ気怠いだけの、それでいてこの上もなく幸せなこの時間をいつまでも留めておきたいと、そんなふうに願ってはいないだろうか。修平がくだらない遊びに俺を誘わなくなった時、俺はどうしたら良いだろう。会う友達もいない。寝て、起きて、酒を飲んで、申し訳程度に家事をこなして、仕事に行くだけ?そんなのは嫌だ。俺はこの空き缶を、この親子を、なんとしても死守せねばならない。
けれど、あんまり物思いに耽っていた俺は、嬉々とした表情で空き缶めがけて走り寄ってくる修平に気が付かなった。
「あ」
かこぉぉぉん。乾いた音が秋の空いっぱいに響く。空き缶の中の親子がどうなったか、考えたくもない。