阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「禁断の果実」石黒みなみ
母が死んだ。くも膜下出血だった。五十代の母がそう簡単に逝ってしまうなんて思ったこともなかった。早くに父と別れ、仕事をしながら私を一人で育ててくれた。しっかり者だが、その分、うっとおしいと思うことも多かった。結婚に甘い考えを抱いちゃだめ、まず一生続けられる仕事をしなさい、と口やかましく言った。恋愛にも口を出した。
「桃子、男の人を簡単に信じちゃだめ」
「今度の人はちょっと亭主関白になりそう。苦労するわよ」
反発はするものの、母の言うことが正しいような気がして、長続きしない。ついこのあいだも、結婚話の出ていた人と別れたばかりだった。まだ三十になったところだ、もうしばらく母と二人で暮らすのも悪くないと思っていたのに、私はひとりぼっちになってしまった。
休日に一人でいると、何もする気が起こらない。灰色の霧の中にいるようだ。だから桃子はだめなのよ、と母の声が聞こえてくる気がする。
ベッドの中でぐずぐずしていると、夕べから降っていた雨がやっとやんだらしく、窓から陽が射してきた。朝刊も取っていないことに気がついて外に出た。梅雨の晴れ間の明るい光の中で、木々の緑がまぶしい。玄関先の花桃が、梅より少し大きい実を今年もたくさんつけている。桃子だから桃の木、とずいぶん前に母が植えたのがすっかり大きくなったのだ。
「食べられないのよ」
と子どもの頃から母は繰り返し言った。春には桜に似た白い花をつける。その花を楽しむものだそうだ。
そういわれても、六月ごろから目立ち始める黄色い実は、雨に濡れるとますますみずみずしくおいしそうにみえる。そのうちほんのり薄赤く色づいて、熟して道端に落ちると甘い匂いを放つ。近所の人や、新聞の集金の人、家の修理に来た大工さんもみんな必ず、これは何の実ですか、と聞いた。
「花桃です。食べられないんですよ」
きっぱりした母の言葉に、みんな子どもの時の私と同じように残念そうに木を見上げた。
母は、入れ替わりの激しい向かいのアパートの住人にも、見かけるたびに「食べられませんよ」と声をかけていた。
「小さい子が拾って口に入れて、おなかを壊したりされたら大変。あとで文句を言われても困るもの」
きれいな花をずっと楽しみたいから、と母はまめに枝を切り、虫よけの薬を撒いた。夏になって熟して落ちる実を、毎日拾っては捨てた。秋になると落ち葉の掃除をしていた。私は今年もまた伸びている枝を見上げた。私は母のように仕事をしながらもきちんと手入れをする自信はない。面倒だからいっそのことばっさり切ってしまおうか、と思っていると、
「おいしそうですね」
と後ろから声をかけられた。振り向くと、白いシャツにジーンズをはいた男が立っている。このあいだアパートに引っ越してきた人だ。同い年くらいだろうか。最近はいちいち挨拶する人はほとんどないのに、石鹸を持ってきた。
「かえって怪しいから気をつけなさい」
と母は言った。熨斗紙に名前があったが覚えていない。私は身構えた。それでも言うべきことは言わないと。
「花桃です。食べられないんですよ」
男は笑った。
「そんなはずないですよ」
彼は手を伸ばし、止める間もなく実を一つもいだ。雨のしずくの残る薄赤い実を、シャツの裾で拭くとそのままかじった。
「うん、うまい。ちょっとすっぱいけど、まあ、すももっていうくらいだからね」
「すもも?」
「ええ。いろんな種類があって、スーパーでもプラムとか言って置いてるでしょ」
気がつかなかった。家事は母まかせだったし、たまにスーパーに行くことがあっても、食べなれたものしか買ったことがない。
「でも母は食べられないって…」
あはは、と男は笑ってもう一つ、実をもいだ。
「それ、何の思い込み?自分で調べたりしなかったんですか。もったいない。ほら」
差し出された洗ってもいない実を、男の笑顔につられて思わずかじってしまった。甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。
「ね? 桃ほどじゃないけど、食べられるでしょ」
私はうなずいた。母に言われるまま、ずっと食べられないと思っていた。目の前の霧がすっと晴れてゆくような気がした。
「あ、僕、谷沢と言います。ご挨拶に来ましたけど、覚えてもらってるかな」
私は首を振り、頭を下げた。
「すみません、山中です」
「知ってます」
谷沢さんは表札を見ながら言った。次に二人で目を合わせ、思わず笑いあってしまった。私はすももの実をもう一口食べながら、下の名前を教えたら、何というだろうかと思った。