阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「春の襲来」杉山聡子
店のシャッターを開けたとたん、花粉混じりの風が吹きこんできた。薄曇りの春空の下、大石君は今日も防塵マスクをして受粉作業をしているのだろう。あれはほとんど防毒マスクだけれど。誰もいない店内で、私はクスリと笑った。
都内に念願の喫茶店を開いて数年たつ。地元の山梨にある農園から、わずかばかりだが果物を仕入れていた。大石君は農園の跡取りで、高校時代の後輩でもあった。今日は彼から桃が届いた。傷んでいる桃がないかすぐにチェックする。もっとも、彼が傷んだ果物を送ってきたことなど、一度も無いのだが。
「あら? すもも?」
整然と桃が詰められている箱の隅に、すももがひとつ混じっていた。季節外れの上、見た目も悪く、商品に使える代物ではない。手に取ってみると、プラスチックのような手触りだ。想定外の感触に驚いた私は、すもも型の物体を取り落としてしまった。床に落ちたそれは真っ二つに割れると、中からは小さなお雛様の女雛が現れた。
「これ、痛いではないか。丁重に扱え!」
お雛様は美しい眉根を寄せると、表情だけは豊かに私を叱りとばした。目の前のあり得ない状況を認めたくない私は、早く消えてくれと願いながら、お雛様に背を向けた。そして、桃の選別作業に戻った。だが、お雛様はお構いなしに話しかけてくる。
「これ、いつまでわらわを床に放置しておくつもりじゃ」
気味が悪くて触るのも憚られるので、私は無視を続ける。
「ふむ……そなた、桃花であろう?」
お雛様はなぜか、私の名前を口にした。
「違ったか? 桃の花と書いてモモカではなかったか?」
わけのわからないものに名前を言い当てられるなど、ぞっとしない。私は知らんふりを決めこんだ。
「ふん……無視しおって。わらわを粗末にすると、そなた、嫁き遅れるぞ」
私は思わず、クスリと笑ってしまった。結婚は、するもしないも人それぞれと思っている。三十路を過ぎた独身女に“嫁き遅れ”がNGワードだった時代もあっただろうが、お雛様なだけに憎まれ口も古風なようだ。
「なぜに、笑う?」
私の反応が意外だったのか、お雛様は明らかにうろたえていた。余裕が出て来た私は、彼女をからかってみたくなった。
「由緒のあるお雛様とお見受けしますが、
こうして会話はできるのに、ご自分で立って歩くことはできないのですか?」
「で、できるとも。ならば、わらわに名をつけよ。さすれば歩いてみせようぞ」
無理難題を言って困らせるつもりが、思わぬことになってしまった。
「まぁ、そなたのセンスも問われるところだがな」
名工の作なのか、端正な顔立ちがにやりと歪むと凄みがあった。
成り行き上仕方なく、私は思案してみた。すもも型の物体から現れたお雛様である。
「李に花の子と書いてリカコはどうでしょう」
「ほう……桃から生まれた男子は桃太郎と名付けられたからの」
昔話の桃太郎はご存知らしい。
「男の子なら太郎、女の子なら花子。日本人の代表的な名前ですから」
私がたたみかけると、
「ふん。キャバクラに一人はいそうな名ではあるがの。悪くはない」
お雛様は気に入ったようだった。現代の知識も豊富らしい。
お雛様“李花子”は自ら立ち上がり、しずしずと歩みを進めると、驚くべき跳躍力でカウンターテーブルの上に飛び乗った。そして、私と目が合う位置にちょこんと座ると言った。
「値踏みするだけのつもりだったが、まあよい。桃花よ、そなたのスマホでわらわを撮ってくれ」
私はお雛様“李花子”に言われるまま、彼女をスマホで写真に撮った。すると、“李花子”は煙のように消えてしまった。
その日を境に、私の人生は変転した。“李花子”の写真を撮ったその時間に、なぜか大石君のスマホに私からデートのお誘いメールが届いていた。彼からはすぐに「行きます」と返信があり、当日にプロポーズされ、とんとん拍子に結婚が決まり、私が大石家に嫁いで二年がたった。臨月の私のお腹を撫でながら、夫が言った。
「女の子だし、名前、リカコはどうかな?」
桃の節句が近づき、大石家に代々伝わるお雛様を久しぶりに飾るという。私のスマホに“李花子”の写真は残っていなかったが、女雛はおそらく、私の見知ったお顔だろう。