阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ワスレモモ」井上真二
紙袋の中にはボール紙の箱があり、クッションがわりに新聞紙で下半分を包まれたスモモが、1ダース並べられていた。淡く紫がかった赤い実の肌から、酸味の効いた甘い香りが立ちのぼってきて、どこか懐かしい感覚に包まれる。
「網棚にあった忘れ物だ。親切な乗客が、事務所まで届けてくれたんだよ。落し主からは先ほど連絡があって、一時間もしないうちに取りにくるそうだ。片山君、対応を頼むよ」
恰幅のいい駅長が僕に紙袋を渡す。東京メトロの制服が、ほどよく張りつめている。
「分かりました。今度はしっかりとやります」
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。用紙に必要事項を記入してもらって、その紙袋を返せばいいのだからね」
ハイ、と僕は頭を下げる。
先月、ろくに本人確認もせず、落し物のスマートフォンを渡してしまったことがあった。引き取り用紙には記載漏れがいくつもあり、そのせいでちょっとしたトラブルになったのだ。使えない派遣スタッフだな、と思われたに違いない。
「慌てずに、リラックスだ。いいね」
駅長は、派遣スタッフ、正社員に関わらず平等に接してくれる。ミスは起こさないようにしよう、と、再び頭を下げた。
落とし主が駅事務所に現れたのは、昼休みが終わる頃だった。
「片山君、あのスモモのお客さん、通しておいたからな」
休憩室でまどろんでいると、正社員の青木主任から紙袋と、拾得物引取り用紙を挟んだバインダーを渡された。
「今度は頼んだぞ、用紙には必ず全て記入してもらって、紙袋を返す、な。コンプライアンス、な。何かあったら、俺を呼べよ」
まるで初めてのお使いだ。
応接エリアのパーテーションの中には、いかにも田舎から出てきましたという出で立ちの、年配の女性が俯き加減で立っていた。
「どうぞ、お掛けになってください」
テーブル前の椅子をすすめる。年配の女性は、深々と頭を下げた。
「こちらの用紙の方に、ご記入をお願いします」
もれなく記載してもらわなければならない。
「ここの欄には、大体でいいのですが、なくしたと思われる場所を書いてください。大体の場所でかまいませんから……」
女性が顔を上げた。
「……貴明?」
年配の女性の顔が、目の前で少しずつ、僕のよく知った顔に変わっていく。
「お母さん?」
「貴明、……なに、あなたここで働いてるの?」
僕は二度頷いた。
「ここの、正社員なの?」
「まさか、派遣社員だよ」
「いつから働いてるの?」
「……三か月くらいかな」
「じゃあ、コメディの方はもうやめたの?」
「だから、コメディじゃなくてお笑いだって」
「それ、まだやってるの?」
「……まあ、一応ね」
お笑い芸人を目指して三年前に上京したのだが、半年前に漫才コンビは解散してしまった。一足先に田舎に帰ってるわ、と言った元相方のことを思い出す。
「お父さんがね、どこかで風の噂を耳にして、見たわよ、テレビ」
「……テレビ? ああ、あれはテレビじゃなくて、ユーチューブっていうの。誰でも出られるんだよ」
元相方は、そちらの方面にだけ明るかった。自分達のネタを見られていたと思うと、冷や汗が出る。
「それで、今日はどうしたのさ」
「どうしたもこうしたも、あなたの顔を見に来たんでしょうが」
僕はこのメトロの沿線に住んでいる。
「いつ帰ってくるの?」
「わからないよ」
「だったらせめて、お正月ぐらいは顔を見せに来なさい」
頑固一徹の父と顔を合わせるのは、気が進まなかった。
「仕事はどうなの? みなさんにご迷惑をかけていないの?」
「それは大丈夫だよ。お笑いと仕事は別だから」
「……だったらいいけど」
母が紙袋に手を伸ばす。
「これ、あなたに持ってきたの。隣の、吉田さんのところで獲れたやつよ。ここの皆さんにお分けして、食べてもらいなさい」
吉田さんのうちからは毎年、スモモのおすそ分けをもらっていた。柔らかくも歯ごたえがあり、甘さが格別だったのを覚えている。
「じゃあ、行くわ。あなたの顔も見れたしね」
紙袋の中のスモモの香りと、母の化粧の匂いが混じり合う。
母は入り口のカウンターに向って深々とお辞儀をすると、駅事務所を出て行った。
「どうだ、片山君、用紙に記入、落し物を手渡し、コンプライアンス、大丈夫だったか?」
パーテーションの上から青木主任が顔を出す。
テーブルには、ほとんど記載されていない拾得物引取り用紙と、紙袋に入った1ダースのスモモが、置かれたままになっている。