阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ノスタルジア」朝霧おと
それを思い出したのは引越して一ヶ月ほどたってからのことだった。質素な食卓を囲んでいる最中、私は「あっ」と小さく叫んだ。両親がそろって顔を上げ、不安をにじませた目で私を見た。
「忘れてた……あれ」
「あれ……って?」
母がおどおどしながら茶碗を置いた。
この小さなハイツに引っ越してからは、口を開けばお金の話ばかりだ。母はすっかり怖気づいていた。
「ほら、庭に植えたスモモの木」
「ああ、あれ。もうだめよ、うちのもんじゃない」
ホッとしたのだろう。母は再び茶碗を手にした。
「返してもらえないかな。大事なものだって言って」
スモモは私が生まれたときの記念にと、父が苗を買ってきて庭に植えたものだ。百香という私の名前にちなんだそうだが、弟の夏樹のときはナツツバキだったので、ただの語呂合わせである。
「なんで今さら。ほったらかしだったくせに」
「十八年、私といっしょに育ってきたのよ。分身みたいなものでしょ」
「花も咲かないし実もつかないし……お前みたいな木だったな」
父がぼそりと言った。すっかり生気のなくなった父のつまらない冗談だ。
「まあね、育て方が悪かったんじゃないの」
父親のせいでもないが、私は美人でもなく勉強も運動もできずなんの取り柄もない。皮肉ったつもりだが父にはたぶん通じていないだろう。
植えるだけであとはほったらかし、枯れないほうが不思議なくらいだ。
大きな庭のある家だった。ナツツバキとスモモのほかにぶどうとキウイの木もあった。昔から実のなる木を植えるのは縁起が悪いといわれているが、父は特に気にすることもなかったようだ。幸か不幸かどれも実はならなかった。実はならなくとも事業に失敗して家を売り払ったのだから、縁起とは関係ないと思う。
ある日、私は中三の弟といっしょにバスで二十分のその家へ向かった。私は園芸用のスコップを、弟には大きなシャベルを持たせた。
「笑っちゃだめだからね。悲しそうな顔をするのよ」
今住んでいる人に頼み込むつもりでいた。記念樹と知ったら、断ることもできないだろうとふんだのだ。
「バイト代三千円、忘れるなよ」
懐かしい街並みに鼻の奥がつんとなる。パン屋の看板も角のポストも横切るネコもすべてが私の郷愁を誘う。我が家に近づくにつれ私は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
家は以前のままそこにあった。しかしよく見ると、庭には枯れ葉がつもり、玄関ドアも外壁の色もくすんで見える。まだだれも住んでいないようだ。
「どうする? だまって入る? 不法侵入になるけどな」
弟がやる気のない声で言った。
懐かしい我が家が目の前にあり、スモモもすぐそこにある。それでもどうすることもできない。私はもどかしさのあまりくちびるをかみしめた。
「ていうかさあ、掘り返したところで、どうすんの? 植木鉢に入れるの? あの狭いベランダで育てるの? ここのほうがよっぽどいいと思うけどな」
弟はシャベルを私に差し出し「キャンセル料千五百円でいいや。じゃ、俺、行くところあるんで」と言って走り去った。手にしたシャベルはずっしりと重かった。
あれから五年、私は社会人となり、好きな人もできてスモモのことはすっかり忘れていた。
その日、仕事でたまたまあの家の近くを通りかかった。パン屋の看板はおしゃれになり、ポストは赤く塗り替えられ、見たこともないネコがふて寝していたが、街は相変わらず私をやさしく迎え入れてくれた。あの角を曲がれば家が見える。どうぞ変わっていませんように。祈るような気持ちで向かった。
豊かに茂る緑の葉が日差しを受けてきらきらと輝いている。遠い記憶にあったシーンが目の前に現れ、私は思わずため息をもらした。そんな中、スモモは見違えるように大きくなり、たわわに実をつけていた。
「こんにちは」庭いじりをしていた夫人が私に声をかけてきた。
「たいした世話もしていないのに、今年、初めて実がついたのよ。よかったらさしあげましょうか」
私が答えるより先に、夫人はひとつふたつと実を採り始めた。赤紫色に熟れたスモモは私のてのひらの上で甘い香りを放った。