阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「頭が良くなる写真」大河増駆
「どや? 千円で頭が良くなる写真や。安いもんやろう」
顔面ひげもじゃで白髪を伸ばし放題のじいさんが薄汚れたカーキー色の作業着と穴だらけのズボンを履いて座り込んでいた。その前には「頭が良くなる写真千円 お得やで!」と手書きの画用紙がおいてある。その老人の周りに小学生十人ほどが群がっていた。その当時は、駄菓子屋で百円あれば一時間遊べた時代である。子どもたちにとって千円はあまりにも高価で、今で言うホームレスのような身なりをした老人を見て子どもたちは完全に馬鹿にしきっていた。
「ほんまに頭が良うなるんか。嘘やろう」
「千円なんか高すぎるわ、誰が買うねん」
「写真見て頭が良うなったら学校いらんわ」
子どもたちは老人に罵詈雑言を浴びせ掛け
背を向けて駄菓子屋へ向かった。
そんな中、ただ一人残ったのが私である。私は勉強ができなかった。ガンガンとシンバルを打ちつけるような爆音が頭の中で常に鳴り響き、勉強どころではなかった。私は音の元はどこにあるのか、知りたくていつもキョロキョロとしていた。同級生からは変人扱いされ、いじめの格好の対象になり、父母からは「このままだと特別な学級に入れられるぞ」と言われていた。老人の話は私の心をわしづかみにした。
「お前は集中でけへん子やろう。目を見たらわかる。この写真を毎日見てたら心の中の雑音も消えていくで……」
まるで私の気持ちを読み取るかのような発言に私はますます引き込まれた。
「ボク今、お金持ってへんね」
「そうか、でも家やったらあるやろう。お年玉の残りが机の奥の方にしまってある、おっちゃんは何もかもお見通しだ。」
「おっちゃん、待ってたるさかい、すぐにとってこい」
その言葉に背を押されるように私は家に向かって走り出した。三十分後、千円札を握りしめて老人のもとに舞い戻った。
手汗でびっしょり濡れた千円札を差し出すと、老人はポケットから出した蟇(がま)口の財布に札を入れ、横におかれていた汚いズタ袋の中から厚みのある上質な厚紙を取り出した。
「これはわしにとって、ほんまに大切な人の写真や。食べるためや……、背に腹は代えられへん。大事にするんやで」
両手で手渡された二つ折りの厚紙をそっと開けると中には白黒の写真が貼ってあった。見たこともないような美しい女の子が写っていた。女の子は肩を胸元まで伸ばし、ぱっちりとした目で少し微笑み顔を傾けている。神がかった美しさに、私はいつしか、スーッと心が落ち着いていくのを感じた。老人の言ったことは嘘ではなかったのだ。
「ええ買い物したなー」
という老人の言葉を背で聞きながら私は厚紙を抱きながら持ち帰った。家に帰ると自分の部屋に閉じこもり写真を見つめ続けた。美しい少女と私が何一つ無い砂漠の上で見つめ合っているような錯覚におそわれた。その日から私の心の中から雑音が消えたのである。授業中、先生の声が心の底に落ちるようにはっきりと聞こえる。クラスで最下位だった私の成績は急激に上がり始め、級友は不審がりカンニングしているのではないかと疑った。先生もテスト中は私の周りをしきりに巡回していたが、視線をテスト問題から一切はずさない私の姿を確認すると「ほんまにがんばったんやな」とほめるようになった。その後、中学校で私の成績は上位を占め、高校は進学校に進み、国公立大学の教育学部に合格することができた。大学卒業後一発で中学校の教職員に採用され、同僚と三年の交際を経て結婚した。子どもは男の子一人女の子一人に恵まれ、順風満帆の生活を送ることができた。
私はとうとう校長になり今年度、退職することになったが、教師生活最後の入学式で新入生が入場した後、目の前のいる生徒を見て思わず「あっ」と叫びそうになり口を押さえた。あの写真の少女が凜とした姿勢で座っていたのである。私は見間違っているのではないかと何度も目をつぶったり開けたりしたが、何万回も見た写真の少女が確かに現出したのだ。すぐに駆け寄り声をかけたかった。あの写真の女の子は年代からいうと祖母に当たるのだろうか。それらを心底から確かめたかったが、私の話など気味悪がって誰も信じてくれないだろう。学校の廊下で私はその少女を度々見かけたが、ついに一度も話しかけることはできなかった。
三月三十一日、退職の日の夕方、写真を持ってあの場所を訪れた。ビルが立ちならび景色は一変していた。老人が座っていた辺りに少しだけ土が残されていたので、近くの石を使って掘り進み、穴の底に写真をおさめ土をかぶせた。深く頭を下げ合掌する私の頬を生ぬるい春の風がそっとなでていった。