阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「笑売」あべせつ
午後一時。内職を一段落させた節子は、夫の竜也が営む自転車店にお昼を届けに車を走らせた。中学を卒業してから、町の自転車屋に丁稚奉公をして二十五年。コツコツ貯めた軍資金で出した竜也念願の自分の店だった。
しかしながら、生活道路から離れたその場所は客の目には付きにくいらしく、わずか十坪の小さな店の前には並べた十数台の新車の大半は二年前の開店当初から居座ったままである。
店前に駐車し、ハザードランプを付けたまま弁当を持って降りる。竜也は、店内で手持無沙汰に座っていた。
「お昼、持ってきたわよ」
「うん、ありがと。もう少ししたら食べるよ」
「傷まない内に食べてね。ここには冷蔵庫がないんだから」
その時、老婦人が自転車を押しながら入ってきた。
「いらっしゃいませ」
節子は満面の笑みで、出迎える。
「ここ、電動自転車はあるかしら? 友達がみんな乗ってて、すごく楽だから乗り換えたらって言われたんだけど」
聞かれた竜也は、ちらりと老婦人を見るなり首を振った。
「電動ありますけどね、おばちゃんはまだ若いんだから、自分の足でこいだほうがいいよ。電動乗り始めるとたちまち足腰が弱くなるよ」
「あら、そうなの? でもこの自転車も古いから、そろそろ買い替えようかと思ってたんだけど」
それを聞くと竜也は立ち上がり、老婦人の自転車をあちこち点検し始めた。
「これ、二十年前くらいに買ったやつでしょ? その頃のこのブランドの自転車は、まだ国内で生産してるから物がいいんだよ。最近のは、ほとんど海外で組み立ててるからね。今、ざっと見たけど、まだまだ充分乗れるよ。おばちゃんも、乗り慣れてる自転車に、このまま乗ってた方がいいよ。新しいのは慣れるまでに時間がかかるからね。どうしても漕げなくなったら、その時は電動にしなよ」
そう言って、タイヤに空気だけいれてあげると、さっさと席に戻った。
「ええっと、じゃあ、点検代はおいくら?」
「ざっと見ただけだから、要らないよ」
「あらま、ありがとう。また寄らせてもらうわね」
「ありがとうございました」
なぜか明るい顔をして店を後にした老婦人の背に、節子は丁寧に挨拶をした。
「じゃあ、私も仕事の続きがあるから帰るわね」
節子は、停めてあった車に乗り込むと帰路を急いだ。
――竜也は、いつも売らんがための商売をしない。
節子は、ハンドルを握りながら考えた。
――客は安価なものが欲しければ、大型店やネット販売で購入する。駅前には、中古自転車店や、スポーツ車の老舗もある。どうした弾みかで流れてきた客を捕まえなければ、経営は成り立たないだろうに。
「うちも中古だとか、オリジナル製品のネット販売してみたら、どうかしら?」
以前、そう提案したことがある。
竜也はカスタマイズが得意で、客の要望にあわせて色々な自転車を作ることができたからだが、彼はそのアイデアを即座に却下した。
「中古はね、塗装の下がどうなってるかわからないから、責任を持って売れないんだよ。
ネット販売は、遠方で買われたら俺が後のメンテナンスを見てやれないからいや」と言う。
とりあえずは節子の内職で食べてはいけているが、この先どうなるのかと、車を降りながらため息をついた。
そんな、ある日のこと。老人が古い自転車の修理を依頼してきた。念入りに見た竜也は、渋い顔をして老人を見た。
「これは、かなりお金がかかるよ。買うほど付くかもしれない。何か思い入れがあるんなら、直せばいいとは思うけど」
「死んだ婆さんの形見なんや。お金はかかってもええから、何とかならんやろか」
「わかった。そういうことなら」
竜也は引き受けると、三日三晩かかって一旦バラバラにした自転車を修理すると、元通りに組んで拭き上げた。
連絡を受けて引き取りに来た老人は、調子のよくなった自転車にものすごく喜んだ。
「おじいちゃん、年金暮らしだろ? お代はこれでいいよ」
思いのほか、安かったのだろうか、老人は
何度も何度も礼を述べて帰って行った。
その後姿を見送りながら、めったに笑わぬ竜也がニッコリと微笑んだ。
――ま、商売は笑売。笑って暮らせたら、それでいいか。
竜也の笑顔を見て、節子も笑った。