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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「されど商売」朝霧おと

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第43回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「されど商売」朝霧おと

私が物心ついたころから、母は忙しく働いていた。朝、家事を済ませると、自宅の隣にある店に行き、夕方まで一日中立ち働いた。従業員に指示をし、得意先に電話をかけ、やってきた客の相手をする。父も同じように働いていたが、子供から見て、圧倒的に母の仕事量のほうが多いように思えた。

父一代で築いた和菓子屋は繁盛し、地元では知らない人はいないほどだった。初めて会う人は「ああ、あそこの梅村屋の娘さん?」と言い、やさしく微笑みかけてくれた。家族でレストランに入れば、頼んでもいないジュースのサービスがあったし、クレープ屋ではおまけに特大の生クリームをつけてもらった。世間の人が私に好意的なのは、すべて「梅村屋」のおかげだった。

私が大学に入ったころのことだ。仕事を終え、やっと一息ついた母がまじめな顔をして言った。

「結婚する相手はちゃんと選びなさいよ。公務員か会社員がいいわ。自営業の人はやめておきなさい」

「なんで? サラリーマンなんて魅力ないよ。私はやっぱりお父さんみたいに手広く商売をしている人がいいな」

「なに言ってるの。商売なんて、苦労するのが目に見えてるじゃない。一日中、夫といっしょにいて、あくせく働いて、感謝もされず、それのどこがいいのよ」

「だってお金があるじゃない」

母が絶句した。

「なんにもわかっちゃいないのね。商売なんてものはね、お金が回っているだけで、あってないのと同じなの。この家だって抵当に入っているんだから。倒産などしてみなさい、大学を辞めなければならないし、それどころかすべてを失って夜逃げしなくちゃならないのよ」

けれど、私には、うちがそれほどお金に困っているようには見えなかった。贅沢をしているという自覚はなかったが、友人から「もったいない」と指摘されることはよくあった。節約の意味を知らずに育ってきたのだ。両親もそれなりに派手な暮らしぶりだったので「うちにはお金がある」と思い込んでいたのだ。

それが大きな錯覚だとわかったのは、私が大学を卒業するころだった。

「もうだめかもしれない……」

梅村屋の経営が悪化し、倒産の危機が迫っていると母に告白された。引き金は父が保証人となっていた友人の会社の倒産だった。

梅村屋が倒産したのは、それからわずか二ヶ月後のことだった。

両親はアパートに移り住んだ。私は就職と同時に家を出て一人暮らしを始めた。仕送りをしなければならないかと思ったが、母にはきっぱり断られた。

「娘に頼るほど落ちぶれちゃいないわよ。あなたは自分のことだけを考えていればいい」

落ち込んでいるかと思ったが、電話の向こうの声は意外にも力強かった。

「迷惑をかけた人たちに、少しずつでも返済しなくちゃね。そのためには今まで以上に働かなくては」

「体、気をつけて」

「健康だけが取り柄だもの大丈夫よ。お父さんとふたりで一から、いやマイナスからの出直しよ」

私は母の持つエネルギーをうらやましく思った。

「あ、それからこれだけは守ってよ。おつきあいをする相手は絶対に公務員か会社員。相手がお金持ちであろうが、イケメンであろうが、商売人は絶対にだめだからね。借金だらけにきまっているんだから」

「わかってるって」

母の偏見をさらりと受け流した。というのも、そのころ私は、会社の同僚の真吾とつきあい始めていたからだ。一流企業ではないが母の好きな会社員だ。もし彼と結婚となったら、母はきっと賛成してくれるだろう。

真吾はかなり地味な環境で育ってきたようで、私が実家の話をすると、いつも興味深く聞いてくれた。

「倒産した当時、地元ではあれこれうわさで持ちきりだったみたい。あそこの奥さん派手だったからねえ、とか、だんなさん、いい車に乗って自慢してたものね、とか。今は父も母もプライドを捨ててがんばってるわ」

そんな話をすると真吾は「すげえな。生きてるって感じがする」と言い、目をキラキラと輝かせた。

「実はさ……俺、このままでは終わらないつもりなんだ。とりあえず三年はここでがんばるけど」

私は緊張した。自然に体が前のめりになる。

「なに? なにをするつもり?」

「うん、前々から考えていたことなんだけど、実はね……」

胸の鼓動が早鐘のように打ち始める。私は開きかけた真吾の口を、固唾をのんで見守った。