阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「家族」ぼにぃぽりぃ
「なぁんでこんなに時間がかかるんでしょう」
ようやく翌日の仕込みが終わった午前一時、いかにも妻の言いそうな言葉を思いついて、邦晴は無性に腹が立ってきた。
「なぁんでそんな言い方をされなくちゃいけないんでしょう」
真似てみて、改めてその言い方のいやらしさが身にしみる。なぜ母音をのばすのか。他人行儀な語尾を使うか。
怒りに任せて皿を乱暴に片づけていると、重ね損ねた皿が隣の皿の列にぶつかって次々と落ち、計八枚の皿が粉々になった。
「二、三人しかお客さんが来ないのに、どうして仕込みにそんな時間がかかるの」
「二、三人じゃない。日によってはもうちょっと来る」
破片を片付けながら邦晴は、幾度となく繰り返されている口論を思いなぞっていた。
「ずっと店にこもっていないで、集客でも考えてみたら」
「手伝いもしないくせに文句ばっかりだな」
「あなたが自分ひとりの力で夢を叶えるんだ、とか言って勝手に会社を辞めたんじゃない」
「うるさい」
毎回のやり取りではあるが、そこから先は思い出せない。いつも小一時間ほど妻が毒を吐き続け、邦晴は一方的にやりこめられるのである。
前々から邦晴は、何か大きなことをやりたいと考えていた。自分は使われるだけで一生を終えるような人間ではない。何かしらの、世に出る才能があるのである。人より優れた人間だということは、幼い頃から感じていた。母親も常々そう言ってくれた。
ところが妻である。いつも邦晴を見下し、馬鹿にする。見返してやらねば気が済まない。
会社に勤めながら邦晴は密かに起業を企み、繁盛しているカフェで週末、アルバイトをした。飲食店なら小さな元手で始められ、いずれ大きくしてゆけると目論んだのである。
もともと料理は得意である。洋食は、鈍臭い妻よりずっと手際よく作ることができるし、味もよい。こればかりは妻も認めていた。
働いてみると、繁盛店のオーナーシェフは、人がいいけれども学はなさそうに思えた。カフェの事業計画は曖昧で、その日その日がばたばたと行き当たりばったりに過ぎて行っているようだった。
「なんだ。こんなものか」
一ヶ月ほどアルバイトをして、邦晴は飲食店の全てを知ったような気がした。子どもの頃から学ぶのは他人より早い。勉強の勘がいい子だと、よく大人たちに褒められた。
「すぐにわかったような気になって、そこから先を深く学ぼうともしない」とは妻の弁である。
妻は理解がひどく遅く、何年でも無駄に同じことを続ける性質で、つまりは賢い邦晴への嫉妬心から出る悪態なのであるが、頭ではわかっていても面と向かって言われると腹が立つ。
邦晴の事業計画はすばらしく、銀行の融資は簡単におりた。
「飲食店でこんな完璧な書類を提出できる人は、なかなかいませんよ」と担当者に褒められた。そのことを告げると母親も喜んだ。いつまでも反対していたのは妻だけだった。
会社を退職したときは、皆に残念がられた。邦晴でないとできない仕事だと乞われ、残業や休日出勤をさいさいこなしていたので、退職すれば業績が傾くのではないかと危惧したが、そんなこともないらしい。
「絶対店に行くよ」と言ってくれた同僚たちは、開店半年余りでまだ一人しか来ていない。
開店から一週間で客足は途絶え、今は毎月の赤字額ばかりが凄まじい。立地は人通りを何日かかけて調査して決めた。内装は定評のあるデザイナーに頼んだ。レシピは人気店と同等で、味も決して劣らない。こんなはずではなかったのである。
「チラシでもまくか。DM出すか」
妻が試しに書いてみたというチラシは可愛らしくて魅力的だったが、使えば妻の言いなりになるようで面白くない。飲食店たるもの、やはり料理の味で勝負すべきなのだ。いやしかし、認知されぬことには始まらない。退職金はもう底をつく。あんなに褒めてくれた銀行も追加融資は拒絶した。妻からはすでに三百万円借りている。
母親なら。反対し続ける妻に「邦晴ちゃんは絶対に成功します。家族なら応援するのが当り前でしょ」と怒鳴りつけてくれた母親ならば。
翌朝、電話をかけた邦晴に母親は「やっぱり」とため息で応えた。
「本当はお母さん、反対だったのよ。でも嫁が反対って言うからカッとなって。だって嫁の言いなりになるみたいで嫌じゃない。ウチの子を馬鹿にするな、って。見返してやりたかったのよ、お母さん」