阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「老いらくの恋」長谷川智美
「お部屋に伺いましたのに。なにも、こんな所で会わなくても」
女が結い上げた髪のおくれ毛を直しながら言う。年のころは三十半ば、今どき珍しい大正ロマンのような香りのする女だ。
「いいや。ここで会う方が燃えるからね」
男がにやけた顔で腰に手を回す。
神社の境内にある石のベンチで寄り添う二人が月明かりに照らされて、まるでこれから心中でもするような雰囲気をかもし出している。
男のほうは何を隠そう、俺の祖父だ。
そういう俺は、今、二人の逢引を大木の陰から見張っているところなのだ。この場所はベンチから少し離れているので、全神経を集中させて聞き耳を立てているところだ。本当ならば今ごろは、大学の卒業論文の制作に精を出しているはずだった。家の一階で物音がしたので階段から覗いてみると、祖父が玄関から出て行くのが見えた。こんな夜中に外出するなんて、まさか徘徊ではなかろうか、と心配してつけてきた結果、今、俺は祖父の逢引を覗き見する羽目になってしまったのだ。
「ご存じかしら? お彼岸の間に亡くなると、ご先祖様たちがあの世に連れて行ってくれるから、迷わず極楽に行けるんですって」
女が祖父を見つめながら祖父の手に自分の手を重ねる。色っぽい目で死ぬときの話をするとは恐ろしい女だ。きっとあの女は〝後妻業〟に違いない。祖父は騙されているのだ。
「初めて聞いたよ。だったらお彼岸にぽっくり逝きたいね。そのほうが安心だから」
何を言っているんだ。にやける祖父に心の中で喝を入れる。しかもお彼岸は来月だ。
「お望みどおりになるといいわね」
女は笑う。もしやあの女、祖父と入籍した後、毒でも飲ませるつもりだろうか。
祖父は四十五年前に祖母を亡くし、男手一つで父を含め三人の息子を育てた。父が幼い頃に祖母は亡くなったので、当然、俺は祖母のことは綾(あや)という名前くらいしか知らない。祖父は祖母を心から愛していたため、再婚は考えられなかったという。そんな祖母一筋の祖父が、八十も過ぎて老いらくの恋に落ちるとは、しかも相手が後妻業かもしれない若い女とは、切ないやら、悔しいやらで、胸が張り裂けそうだ。
こちらの気持ちも知らずに、祖父と女は体を密着させ、話をはずませている。祖父の話を聞いて、女がコロコロと笑う。本当に楽しそうだ。祖父は、女以上に楽しそうだった。
ここで出て行ったら、二人はどんな顔をするだろうか。女は驚くに違いないだろう。しかし祖父はどうだろうか。もちろん驚くだろうが、俺の責めるような目を見た途端にどんな表情をするだろうか。ごまかすように目を逸らすだろうか、逆ギレするだろうか、悲しい顔をするだろうか。どの顔も見たくはなかった。楽しそうな祖父の顔を壊したくはなかった。あんな楽しそうな祖父の顔は久しぶりに見たからだ。
祖父が立ち上がって歌を歌い始めた。裕次郎だ。手振り身振りをしながら歌う祖父は、まるでミュージカル俳優にでもなったかのようだ。女は相変わらず楽しそうに、手拍子をしながら一緒に裕次郎を口ずさんでいる。きっと祖父に教わったのだ。
祖父が女の手を取ると、自分の腕の中に引き寄せた。女も何の抵抗もなく祖父の胸に頬を預ける。いきなりチークダンスが始まった。
ゆったりと動く二人が、まるで映画のワンシーンでも見ているかのようにキレイで素敵で、神々しささえ感じた。いやいや、きっと、月の光のなせる業だ。そう思いながらも、二人を完全には否定できない自分がいた。
その日から、祖父は毎日のように夜中になると逢引に出かけた。女は毎日同じ服を着て現れ、祖父と楽しそうに話して、歌って、踊って、別れた。それを俺は見守り続けた。
女が祖父に対していっこうに結婚の話をしないので、俺は安心しきっていた。祖父も楽しそうだし、誰に迷惑をかけているわけでもないし、祖父が幸せならばこのままでいいのではないか、と思った。甘かった。
彼岸の入りの日、祖父が死んだ。しかも、ぽっくりと。
脳裏にあの女の顔が浮かんだ。祖父に毒でも飲ませていたのかもしれない。もしかしたら、昼間、俺の知らないところで会っていて、祖父に遺言書を書かせていたかもしれない。あの女に全財産を託すなどと書かれた書面でも出てきたら大変な事だ。両親が見つける前に探し出して破棄しなければならない。
必死で祖父の部屋をあさる。遺言書、と何度も呟きながら祖父が愛用していた文机の引き出しをかき回す。と、年代を感じさせる一枚の写真が顔を出した。
あの女だ。
写真の裏を見て硬直した。綾・三十七歳と書かれてあった。