阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「岸」三浦散穂
拾った石を投げ込むと飛沫が川面に小さく上がり、水に呑まれてすぐに消えた。私はもう一度石を拾って投げ、行方を確かめずに岸から離れた。西日が私の背中を焼き、私は帰宅するまで背中を向けたままだった。
夜になってカーテンを開け、星明かりを迎えた。こんな時間か、と父が言った。仕事に行ってくる、と続けて、父は家を出ていった。眠っている母を起こして、父さんが出ていったよ、と伝えた。母は起き上がって湯を沸かし、自分と私の分の茶を入れた。鍵をかけよう、と私は言った。母は黙って茶を飲んだ。私が鍵をかけて卓に戻ると、母は黙って茶を飲み、寝るね、と言って立ち上がった。私は自分の分と母が残した分の茶を時間をかけて飲み干したが、夜明けを待つにはそれでは足らず、書棚から母が編んだ本を手に取って読み始めた。追悼詩の切れ端を眺めている間に目は閉じて、扉を叩く音が再び私の目を開かせた。開けてくれ、と父の声がした。私は母を起こして、父さんが帰ってきたよ、と伝えた。母は扉の鍵を開けようとした。私は母を寝室に押し戻し、扉の鍵をかけた。開けてくれ、と父の声がした。開けてくれ、と父の声がし、父の声はもう聞こえなかった。寝室に入ると母は眠っていた。私は母の隣に入り、目と耳で覚えている限りの追悼詩を思い浮かべた。
朝日が私の胸を焼いた。母は扉の先で打ち水をして、私の挨拶に、おはよう、と答えた。私は工場に行き、一九二〇本の容器に水を詰め、サインして工場を出た。母は家の前で打ち水をして、私の挨拶に、おかえり、と答えた。家の中では男が椅子にかけて、母は男のことを私の父だと言った。おかえり、と男は言った。
男はたくさんの本を持ち込んで、夜にはカーテンを閉め切って母と本の編纂を始めた。朝になって男と母が眠った後、私は作りかけの本を持ち出し、母が選びそうにない詩ばかりが候補に挙がっているのを見た。私は家の前で打ち水をして、工場に行き、二一六〇本の容器に水を詰め、サインして工場を出た。夜になって起き出した母は、私の挨拶に、おはよう、と答えた。
私は工場に行き、二四〇〇本の容器に水を詰め、工場長からサインするように言われ、さらに九六〇本の容器に水を詰めて工場を出た。家の明かりはカーテンで遮られて、私は星明かりを頼って川岸まで出た。川には星がなく、おかえり、と男の声だけがした。父の声だった。母さんが新しい父さんを連れてきたよ、と私は伝えた。仕事に行ってくる、と父の声がした。私は父の声を追って工場に入った。父の声は、水を詰めた容器六〇本が入った袋二つを持って工場を出、川岸までの道を引き返し、容器に入った水を川の中に捨てて、工場までの道を引き返した。そうして十六往復して東の空が明るくなり、父の声が消え、二つの袋が残った。私は袋を拾って工場までの道を引き返し、空の容器三八四〇本に水を詰め、水を詰めた容器六〇本を袋に入れて、家までの道を歩いた。
空には星がなく、家の窓から中が覗け、男と母が蝋燭を囲み一冊の本を開いているのが見えた。男と母の口が動いているのが見え、男と母の声が同じ節を辿るのが聞こえたが、それがどんな文句なのかはわからなかった。家に入ると、男と母は私を見つめ、おかえり、と言った。私は黙って同じ卓につき、開いてある本を手に取った。どのページにも母が選びそうにない詩が並んでいた。私が選んだ詩だよ、と母は言った。私が選んだものは載せなかった、と男が言った。私が男と母が編んだ本を読む間、男と母は黙って座っていた。窓から朝日が差し込むと、おやすみ、と言って、男と母は床についた。
私は水を詰めた容器六〇本を使って家の前で打ち水をして、工場に行き、一九二〇本の空の容器に水を詰め、サインして工場を出た。男と母はまだ眠っていて、私は男と母が編んだ本を手に取って川岸までの道を歩いた。西日が私の胸を焼き、その力が弱まり消えていくまで私は胸を焼かせた。空には星がなく、川にも星はなかった。おかえり、と父の声がした。お母さんが選んだ詩だよ、と私は言って、男と母が編んだ本の中から最も母らしい詩を声に出して読んだ。仕事に行ってくる、と父の声がした。父の声は川を渡り、向こう岸に着いたところで消えた。