阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「お彼岸の虹」星いちる
夫の太蔵さんが四月に八十三歳で亡くなってから、良子さんは少し寂しい日々を過ごしていました。
娘夫婦は車で三十分のところに住んでいて、週に二度は孫をつれて遊びに来てくれるので、気はまぎれるのですが、なんといっても五十年近くも寄り添って暮らした相手がいなくなるとやっぱり寂しいものでした。
太蔵さんが生きていた頃はご飯を毎日炊いていましたが、いまはご飯を炊くのは三日に一度です。
仏前に炊き立てのご飯を供えながら、
「すみませんね、お父さん」
と良子さんはあやまっていました。
太蔵さんはおしゃべり上手な人でした。
だから、二人きりの家のなかでも笑いがいつも絶えませんでした。
良子さんもおしゃべりなほうでしたので、二人はいつもマシンガンのように会話していました。
娘もおしゃべり相手になってくれますが、やはり娘は外に嫁いだ身です。毎日いっしょにいてくれるわけではありません。
ささいな、身の回りの小さなことを会話できる相手というもののなんと貴重なことか。
太蔵さんが亡くなってから、良子さんはひしひしとそれを実感する毎日でした。
できることなら、またお父さんと話したいねぇ……
それが、良子さんの心からの願いでした。
明日は、秋の彼岸の入りでした。
八月の新盆も多くの人が家を訪れましたが、彼岸にも人が来るでしょう。
良子さんはお茶菓子を用意して、来客に備えました。
四時頃、空模様があやしくなって、急な夕立になりました。小一時間も激しく雨が降り、良子さんは裏庭のコスモスが倒れていないか心配になりました。
雨はようやく止み、良子さんは裏庭に様子を見に行きました。裏庭までの通り道に、大きな水たまりができています。
コスモスは、健気にもあれだけの雨に持ちこたえてくれていました。
良子さんはほっとして腰をのばし、何気なく空を見上げました。
すると東の空に大きな大きな虹がかかっていました。
「あれえ」
虹に感激したのと同時に、良子さんはびっくりしました。なんと、虹には太蔵さんが腰かけているではないですか。
太蔵さんはにこにこしながら手をふっています。
良子さんは呆然としましたが、気がついたら太蔵さんのとなりに座っていました。
「久しぶり、母さん」
「お父さん。どうしたことなんですか?」
思わず訊かずにいられませんでした。
「お彼岸というのはね、あの世とこの世が最も近づく日なんだよ。それで、こうして会えたわけさ」
「まあ」
何でもいいですが、太蔵さんに会えて良子さんはうれしくなりました。
「お父さん、久しぶり。また会えてお話できてうれしいですよ」
「うん、私もだよ母さん。いつも母さんのことを見てたけど、話せなくて寂しかったよ」
「私もですよ、お父さん」
良子さんはじんわり涙が浮かんできました。
「でもねえ母さん、死んだらつまらないよ。おいしいものは食べられないし、会いたい人にも会えないし。だから母さんも生きているにおいしいものをいっぱい食べたり、会いたい人に会って、行きたいところに行っておいで。私は、ゆっくりあの世で待っているから。ゆっくりおいでね」
「まあ」
良子さんは、そんな太蔵さんがかわいそうに思いましたが、太蔵さんのことば通りにしようと思いました。
「わかりました、お父さん」
「うん」
太蔵さんがほほ笑んだのを見たと思ったつぎの瞬間、良子さんは畳の上で目を覚ましました。そういえば、夕方うたた寝をしていたのです。
良子さんは、あわてて外に飛び出しました。東の空にかすかに虹が残り、やがて消えてゆきました。
良子さんは、お父さんの言う通り、この世でしかできないことをたくさんして、お父さんへのみやげ話にするね、と思いました。
雨上がりの彼岸近くの夕空は、黄金色にきらきらと輝いていました。