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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「寓居」鎌田伸弘

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作文・エッセイ
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TO-BE小説工房
第41回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「寓居」鎌田伸弘

ある日、ひとりの男をみかけた。

昼休みに勤務先の書店を通用口から出て、おもてにまわったときだった。その日は日曜で、二月とはおもえぬほどにあたたかかった。池袋の通りは人であふれていた。

その男には見おぼえがあった。印象は当時とはまるで違った。薄手のジャンパーにジーンズ。肩からは革のバッグをさげていた。かるい足どりでわたしのまえを歩いている。まわりの人たちと同じように休日を楽しんでいるようにみえた。後頭部が禿げていなければ、

その男とは気付かなかったかもしれなかった。

 

その男はホームレスだった。十年いじょうも前の、秋から冬にかけてのころだったろうか。持ち物は中身がいっぱいでぱんぱんになったボストンバックがひとつ。黒なのに汚れでところどころ白くなっていた。ダウンジャケットを着て、毛糸の帽子をまぶかにかぶり、まいにち日暮里駅のコインロッカー脇に膝をかかえて坐っていた。いつも本を読んでいた。

 

当時わたしは谷中に住んでいた。日暮里から電車に乗って人形町まで仕事に行っていた。まいにち男を見かけた。朝行くときにみて、夜帰ってくるときもみた。電車がなくなり、駅のシャッターがおろされたあとどこに行っていたのかはわからなかった。

仕事は日雇いで肉体労働のアルバイトだった。電話一本で予約を入れて働き、終われば日当入りの封筒を順番に手渡されるだけのものだった。生活さえ考えなければ行っても行かなくても、どうでもいい仕事だった。はじめのうちはちょくちょくすっぽかした。しだいに休むとホームレスのことが気になるようになった。きょうもあすこに坐って本を読んでいるんだろうか。収入の面だけではなかった。ホームレスが気になって、休まずに行くようになった。休むとかれに悪い気持ちにさえなった。

あるとき近所の公園でかれを見かけたことがあった。その日もあたたかかった。かれは上半身はだかになって、水道で手拭いを濡らしてからだを拭いていた。帽子も脱いでいた。後頭部が禿げていた。

気付かれないようにしばらくかれを見ていた。自分と同じだとおもった。六畳一間のアパートには風呂がなかった。銭湯はちかくにあったが、料金は三百六十円だった。彼女とふたりで暮らしていたから毎日入ったらかなりの額になる。日雇いのその日暮らしではそうそう入れなかった。彼女も働いていたが、スーパーのレジ打ちではたかが知れていた。月の半分いじょうは台所の流しで頭を洗い、からだはタオルで拭いていた。わたしこそホームレスだった。でも楽しかった。夢があった。若かったのだろう。毎日が輝いていた。

ホームレスを反面教師にしようともおもわなかった。むしろ親近感さえおぼえていた。

ふいにホームレスがこちらを向いた。目が合った。わたしはあわてて視線をそらし、足早に公園を立ち去った。かれはかすかにわらっていたようだった。人なつっこそうな顔だった。歳も自分とさほど変わらないかもしれないとおもった。

 

その日暮らしの生活から抜け出せる日がきた。ホームレスのおかげだった。休まず仕事にいったからだった。月払いのアルバイトにうつった。勤務地も変わり、日暮里駅は使わなくなった。ホームレスにも会わなくなった。だからといって仕事を休むことはもう当然なかった。あたらしい生活に追われ、かれのこともすぐに忘れていった。

十年たった。彼女は妻になった。池袋の書店に就職して、どうにかきょうまでやってきた。そしてかれはふたたびあらわれた。ホームレスから立派に立ち直った姿で。この十年かれにはどんなことがあったのだろう。どうやって今の生活を手に入れたのか。なまじのものではあるまい。相当な苦労があったのではないか。それにひきかえわたしはどうだ。どうにかやってきたとはいえ、毎日はすっかり漫然としてしまった。妻ともすれ違いが多くなり、けさもささいなことでいいあらそって家を出てきたのだった。たまらずわたしはかれの肩を叩いて声をかけてみたくなり、かれの背後に駆け寄った。すると……。

かれが振り返ってわたしをみた。わたしはあっと声をあげた。かれの顔はわたしの顔だった。そっくりというのではない、まさにわたし自身だった。かれはうす気味悪くわらった。わたしは全身総毛立ち、その場に凍りついた。すぐにかれは向き直り、ふたたび歩き出した。後頭部はもう禿げていなかった。そのまま何ごともなかったように書店に入ってゆく。わたしの勤める書店に。

いやな予感がした。わたしはおそるおそる手を伸ばして、自分の後頭部に触れてみた。そしてことばをうしなった……。