阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「送り火」朝霧おと
鴨川にかかる橋の上は、五山の送り火を見ようとする人たちでごったがえしていた。この橋からは大文字と妙法、三つの送り火が見えるという。私は、さきほどホテルのフロントでもらったうちわを揺らせながら人ごみをかき分けた。
なんとか橋の真ん中までやってきた。目の前には、黒々とした山と静かに流れる川が広がっている。私は欄干に身を預け大きく息を吸い込んだ。
大文字を見ることに特別な理由があるわけではない。街中の人たちが見守る中、山に火を点して死者を送るという大イベントを見学したい、ただそれだけだ。亡くなった人が近くにいればまた思い入れも違うだろうが、幸いにも私の周りの人はみな健在だった。
「点いた」とだれかが叫んだ。赤い炎が一点ついたかと思ったら、その後次々と点火され、またたくまにあざやかな色の文字を暗闇に浮かび上がらせた。私は携帯を取り出し、何度もシャッターを切った。
「また来年……」という男の声が後ろから聞こえたのは、妙と法の字がくっきりと浮かび上がったころだった。ふりかえった私はその男を見て全身が熱くなるのを感じた。
背の高さ、整った顔、雰囲気、なにからなにまで、私が長年想い描いていた理想の男性そのものだったからだ。
これは奇跡の出会いであり、またとないチャンスだ。なんとかコミュニケーションをとる方法はないだろうか。私は手にしたうちわで、汗ばむ胸のあたりをパタパタとあおいだ。
やがて炎は消え、見物人がちりぢりに分かれ始めた。このまま何もせずにいれば二度と彼に会うことはないだろう。焦った私は川べりに下りていこうとする彼のあとを追った。
「あのう……落ちましたよ」
こんな古い手のナンパをする自分が恥ずかしくて情けなくて、それでも強い意志が私を大胆な行動に駆り立てた。
彼はふり向くと、私が差し出したうちわをじっと見て静かに首をふった。
「そうですか。じゃ、もらっておこうかな」
暗くて表情はわからなかったが、たぶん彼は微笑んでいたのだろう。もう一押しだ。
「大文字、ステキでしたね。わざわざ来た甲斐がありました」
私は小走りで彼の少し後ろについた。川べりには、ときおり涼やかな風が吹き、熱くなった私の頬をなでる。彼の返事はない。私があおぐうちわの音がふたりの間を漂っていた。
息苦しくて、私はますます焦った。
「どなたかをお見送りに?」
川のせせらぎと、ゆっくりと地面をふみしめる靴音だけが聞こえる。それは感情をよみとることのできない規則正しい音だ。
質問がまずかったのだろうか。軽い女と見られたのかもしれない。私は早くも自分の行動を後悔し始めていた。
次の橋が見えたころ、彼はようやく口を開いた。
「彼女です……」
ああ、もう自分で自分の口を縫い付けて何も言えなくなるようにしてしまいたい。祖父や祖母だと思い込んでいた私はなんと愚かなのだろう。
絶望的な気持ちになった。けれど見方を変えれば、もう彼には彼女がいない、自分にチャンスがあるということになる。私は前向きになろうと自分を励ました。
「そうだったんですか。お気の毒です」
「車の事故で……僕が運転を」
自責の念にかられているのかもしれない。私はどう反応していいのかわからず、彼を慰める言葉を必死で探した。
「今年が初盆なのですが、まだ要領がわからなくて……」
要領? と聞き返すのもためらわれ「ちゃんとお見送りができて彼女も喜んでおられますよ」と精一杯の明るい声で間をもたせた。
三つ目の橋が見える。私は胸の中で賭けをした。あの橋に行き着くまでに名前を聞かれなかったらそこで終わり、あきらめようと。
いよいよ橋に近づいたときだ。彼がぽつりと言った。
「あ、彼女……」
前方に白っぽい服を着た女性の姿があった。彼女はその場にじっと立ち、こちらに顔を向けている。
私は激しく混乱した。去年亡くなったばかりだというのに、もう新しい彼女が?
彼はゆっくりとした足取りで女性の元に近づいた。彼女の微笑んだ顔が見えなくとも手に取るようにわかった。
やがてふたつの影は重なった。呆然とする私の前で、黒い影は闇に溶け、あとかたもなく消えてしまった。
一陣の風がすりぬける。私のまぶたにさきほどの燃える送り火がまざまざとよみがえった。