阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「おどつ」山岐信
元禄十二年、海防の関係から上野前橋藩の領地たる相模国三浦郡久里浜村に、浄土真宗本願寺派の寺で光福寺というのがあった。晴れた日には、内海にのぞむ小高い丘の上の寺から、対岸・金谷の鋸山が霞みがかってのっぺりと見える。
高齢の住職は名を福翠といい、愛嬌のある笑みを常時顔に湛えていながら、坐っているだけでどことなく霊妙な雰囲気を纏っているので、門徒に限らぬ地元の漁師や農民からの信頼は厚かった。
七月十二日の晩のこと、住職は二人の小僧を呼び出した。
「わしは棚経のために明朝早くに発つ。遠くの門徒さんもおられるゆえ、送り火までに戻らぬかもしれぬ。おぬしらには、留守の間この茶壺を守ってもらいたい」
小僧らは、桐の箱に納められた茶壺をまじまじとのぞきこんだ。蓋の上から紺色の和紙を被せられ、朱色の絹紐で封がなされている。
「中には禍が封印されておる」
住職が言うには、去冬、浜千代という泥棒によって門徒の家から盗まれた。ところがやっこさん、逃げる途中に崖から足を滑らせて死んだので、箱入りの茶壺は運良く無傷で持ち主に戻った。
「なんでも、浜千代は封印を解くために壺を盗んだそうな。盆は地獄の獄卒たちの休業期間、――さる月初めの釜蓋朔日に地獄を出立した死者が、迎え火を頼りに明日には到着するじゃろう」住職は神妙な顔になり、二人の小僧の目を順番に見た。「浜千代のような泥棒は、妖怪・おどつとなって訪ねて来ぬとも限らぬ、と持ち主が恐れておってな。寺で預かった。くれぐれも頼んだぞ」
「は、はあ」
十七の妙海が、住職の真剣な眼差しに気圧されながらも何とか応えた。十三の円寿は妙海の陰に隠れ、頷いたきり声も出せない様子。
さて、この二人の小僧、茶壺の番を引き受けたはいいが、おどつがどんな妖怪だか知らない。住職が真面目な顔で頼むからには、よほど恐ろしい魑魅魍魎に相違ない。
予告どおり住職が朝早くに寺を発つと、半刻も経たないうちに、妙海と円寿は、ご住職はまだか、いつお帰りになるのか、と寺中をそわそわと歩き回った。留守を任された他の僧たちは、これを見てくすくす笑った。が、日暮れになると、ベソをかき出した二人を宥めるので笑っているどころではなくなった。
そんな折、住職がふらりと戻ってきた。付き添いの若僧たちはどうしたものか、住職ひとりである。ともあれ妙海と円寿は安堵した。次の刹那、異変に気がついて顔を強張らせた。
住職は口を動かし、何やら喋っている様子。にも関わらず、声が聴こえない。二人の小僧は自分の耳がおかしくなったかと疑った。が、ひぐらしの鳴き声は聴こえるので、どうやら住職に問題が生じているらしい。
住職が口を閉ざして数拍の間が空いたのち、固く真一文字に結ばれている唇から、出るはずのない声が小僧の耳に届いた。
「おどつに襲われて、他の者は助からなんだ。わしも、声が遅れて届くようにされてしまった。茶壺は無事じゃろうな。早く確かめたい」
妙海と円寿は、真っ青になって顔を見合わせた。それから、床板を踏み抜かんばかりの大慌てで茶壺をとってきて、坐っている住職の前に押し出した。
住職は桐の箱を開けて、茶壺をさっさと取り出し、何の躊躇いもなく封印の絹紐に指をかけた。妙海と円寿は同時にあっと言った。ところが住職がまた口を動かした。きっと納得のいく事情があり、その説明をしてくれたのだろう、と二人は解釈した。
紐が解かれ、和紙が取り外され、茶壺の蓋が開けられた。封印は解かれたのだ。瞬間、住職がニカーッと身の毛もよだつ物凄い笑顔を見せ、茶壺もろともスーッと消えた。
妙海と円寿は何が起きたかわからず、ぽかんと口をあけてただ坐していた。そこへドタバタと他の小僧が駆けてきて、
「大変だ! 福翠様が、……付き添いのみんなが」うっと言葉に詰まったが、涙を呑んで続ける。「棚経に来ないのを不審がった門徒さんが、寺に呼びに来る途中で見つけたんだ。福翠様は全身の皮を剥がれて冷たくなっておったそうだ。むごいことをしやがる」
部屋を出て行った小僧について行こうとした円寿を、妙海が腕をとって止めた。何をすると言った円寿に、妙海は聴かなくてはならぬと言った。円寿はすぐに理解した。おどつが、茶壺の封印を解く直前に言った言葉。住職を殺して皮を剥ぐほどの妖怪が言うことだから、さぞ悍ましい言葉に相違ない。茶壺の番を任され、その役を果たせなかったせめてもの償いに、聴き届ける責任がある。
二人は待った。――そして、声が来た。
「これが本当のフクスイ盆にカエらず、なんつって」