阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「穴」宮本享典
朝、藤原則之が悪夢から目を醒ますと、寝室の中央に穴が浮かんでいた。
穴は直径三十センチぐらいの楕円形で、よく見ると穴の縁はレンズの縁のように歪曲しており、僅かにゆっくりと蠕動している。穴そのものは漆黒で内部がなにも見えない。藤原は暫く穴を眺めた。これはさっきまで見いていた悪夢の続きなのだろうか。まだ少々ねぼけているにしても、藤原の意識ははっきりしている。穴が空中に浮いている以外、いつもと変わらぬ自分の寝室である。
藤原はベッドを出て穴を観察しながら寝室内をぐるぐると歩き回ってみた。穴は厚みがなく、穴の裏へ廻ってみると、やはり同じように黒い穴が空いている。どちらが表でどちらが裏なのか判別出来ない。穴の縁に触ってみるとシリコンラバーの様な弾力がある。穴に手をかざしてみると、どうも呼吸しているようで僅かに空気の出入りがある。藤原は思い切って人差し指を穴の中へゆっくりと入れようとすると、「指を入れるな」と穴が言った。藤原は少々驚き身じろぎした。「喋れるのか」と藤原は穴に訊いたが返事はない。
藤原の混乱とは関係なく、穴はときどき溜め息のようなものをもらした。そのとき一瞬だけ穴は縮まり、はぁと息をもらし、また元の形に戻った。
穴は藤原のほうへ向きを変えてじっとしている。藤原を観察しているかのようでもあるし、非難の目を向けているかのようでもある。言葉を閉ざした穴の思料など藤原には推測すら出来ない。空中に浮かんだ穴とのコミュニケーションなどどう取ればよいのだ? 穴はまた蠕動を繰り返し藤原を見つめている。
「悪いね。今日は用事があるんだ」と藤原は言い残し、寝室を出、仕事道具のカメラ・レンズ・ライト一式をバッグに詰め込み、今日の撮影現場へ車で向かった。
×
四月の空気は思いのほか肌寒かったが、桜の見頃を過ぎたこの辺りから、ようやく春の気配が近付いてくるのが分かる。
今日の撮影現場はスーパーなどで使う生鮮食品の撮影である。撮影技術としては静物を撮るのはそれほど難しくはない。とはいえ、物も言わず動きもしない被写体に表情を加える作業は、それなりに技術がいる。たとえばリンゴひとつとっとても、その配置・向きやライトの当て方次第で様々な表情を生み出すことができる。さらに品数が多いので一つの商品に多くの時間を割くことは出来ない。一発で勝負をきめなければいけない時間との戦いなのである。
藤原がスタジオに入ると撮影の準備はほぼ整っていた。白いスクリーンの上にはレモンが五個載っている。藤原は手際よくカメラとライトをセッティングし、撮影準備を終えた。
「それじゃあ、いきましょうか」
藤原の合図で撮影がスタートする。一商品につき三四枚撮影する。影の写り込みや商品の配置をファインダーごしに指示する。商品によって最適な表情を出すため向きの変更をすることもある。一つが撮り終わるまで一分とかからない。だが今日の撮影では百を越える商品を扱うため、スタッフ全員がテキパキと動き回る。藤原は数十の果物を撮影した。どれも生きた木からもぎ取られ、生を失った実であるはずなのに、ライトに照らされ、新たに生を与えられたかのようにファインダーに映る。それは果実の奥に内包される種子のためであろうか。だが商品として扱われる以上、その発芽をみることは決してない。
藤原は最後の商品の撮影を終えた。
「よーし、今日のところはこんなところで。お疲れさまでした」
撮影現場にはちょっとした緊張感がほぐれた空気が流れた。各々が撤収作業にかかる。藤原も撮影機材を片づけてスタッフ達に挨拶をし、家路についた。
×
藤原は帰宅するとシャワーを浴び、ウィスキーを一杯飲んで寝ることにした。
寝室へ入ると穴が二つに増えていた。
どちらが最初からあった方なのかは分からないが、穴は向かい合わせに浮かんでおり、蠕動を続けていた。
そのうち一方の穴が不快な音をたてて何かの種を吐き出した。藤原はそれを近所の公園にでも埋めようと思った。それが植樹なのか埋葬なのか判断が付かなかった。