阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「おむすびころりん」三浦幸子
私の母は慈悲深い人だった。誰かが困っていると手を差し伸べずにはいられない人だった。
となりに老夫婦が住んでいたが、おばあさんが先に亡くなり、おじいさんがひとり寂しげにしていたときも、母はことあるごとにおじいさんを気遣った。
「こんなによくしてもらって嬉しいよ。お礼は何もできないけど、昔話でもしようか。聞いてくれますか?」
おじいさんの生い立ちや経験を話すのかと思っていたら、おとぎ話をし始めた。
「おじいさん、ちょっと待って下さい。娘も一緒にきかせてもらっていいですか?」
おじいさんはにこにこしてうなずいたので、母は私を呼びに帰ってきた。
おじいさんは話がうまく、当時きかん坊だった私も熱心に聞いたので、おじいさんはすごく嬉しそうだった。私も、次々と飛び出す昔話に、毎日胸をときめかせていた。
「おむすびころりん、すっとんとん。正直者のおじいさんは宝をもらって幸せに暮らしましたとさ……」
昔話が終わるといつも、「ふたりのおかげで、さみしくないなあ」とおじいさんは何度も言っていた。
そして、そのおじいさんもやがて亡くなってしまった。母は最後まで、この身寄りのないというおじいさんの面倒をみた。
ある日、弁護士という人がうちにやってきた。おじいさんの遺言だと言い、母に五百万円を手渡した。母は何度も断ったが、弁護士も母に受け取って貰えないと仕事が終わらないからだろう、強引に置いて帰って行った。
私にとっては昔の話だ。とうに忘れたはずだった。
私の嫁ぎ先のとなりに、おばあさんが一人で引っ越してきた。
「夫が先日亡くなりましてねえ。前の家は一人で住むには大きすぎるので越してきたんですよ。だけど小さい家でも一人は寂しいですね……あなたお子さんは?」
「三歳の娘がおりますが」私が答えると、
「ちょうど良かったわ。私ね、前の家に居るときに、絵本の読み聞かせのボランティアをしていたの。あなたの娘さんにも聞かせてあげたいわ。遊びにいらっしゃいな」という。
まだ、このおばあさんがどんな人か知らない。
「とりあえず、君と一緒に行くなら良いんじゃないか? ボランティアをしていたというのなら、変な人じゃないだろう?」
夫がそう言うので、次の日、ビスケットを持って娘と一緒に訪ねてみた。
「あらあ、ぜったい今日は来てくれると思ったわ。どうぞどうぞ上がってちょうだい」
おばあさんは満面の笑みで私たちを迎えてくれた。しゃれたテーブルの上には高そうな茶器のセットとケーキが用意されていた。彼女はお金持ちに違いない。
着ているものも、家具も食器も、カーテンにいたるまで、全てが洗練されている。
三人で、おしゃべりとお茶の優雅な時間を過ごして帰ってきたが、娘はこの時間をすごく気に入ったらしい。それから何度もおばあさんの家に遊びに行き、そのたびに豪華なティータイムを過ごした。
行くたびににこにこしてお礼を言うおばあさんと、昔の五百万円のおじいさんが重なった。
「おばあさん、お子さんとかいらっしゃらないのですか?」
台湾から取り寄せたという美味しい烏龍茶をすすりながら、できるだけさりげなく切り出した。
「私はね、天涯孤独なの。私が亡くなっても誰も悲しんだりしないのよ」
「そんな!私や娘は悲しいです。そんなこと言わないで下さい」必死で言った。
「あなた、優しいわね。頼りになるのはあなただけだわ。私が死んだ後も頼りにするわ」
そう言いながら、おばあさんは書類を出してきた。
「前から考えていたことなんだけど……私が亡くなったら、あなたに私の権利の全てがいくようにしておきたいの。こんなにお世話になったのだもの。当然でしょ?」
心の中でしめしめと思った。母は五百万だった。私はいくら貰えるのだろう。
おばあさんの気が変わらないうちにとっととサインしよう。
あまりの興奮に、捺印する手がふるえた。
おばあさんが亡くなった。私は来る日も来る日も弁護士を待った。
「連帯保証人の件でお伺いしたのですが」
私がサイン捺印した書類と、貸金業者の名刺が目の前にあった。
――おむすびころりん、すっとんとん。欲張りなおじいさんはモグラになり、一生暗くて深い穴の中からは出られませんでした。