阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ポケットの穴」吉田桐
私の勤めている図書館は市立図書館の分館で、公民館や児童館と同じ建物の中にある。図書館というより、小学校の図書室の方がイメージが近く、勤務しているのは私1人。
地域の憩いの場として長年親しまれていて、顔なじみの利用者も多い。
小中学校の冬休みも終わった頃、見慣れない男の子がやってくるようになった。友達と遊ぶ様子はなく、いつも一人で本を眺めたり、館内を歩き回ったり。そして、夕方5時のチャイムが鳴ると帰っていく。その男の子を気にしているうちに、いつも同じズボンをはいている事に気づいた。そのズボンの後ろのポケットには穴が空いている。トレーナーは少しヨレていて毛玉が目立つ。まだ小学生にならないような年齢の子が、一人で来て一人で帰って行く。ふと、最近新聞で読んだ幼児虐待の記事が頭をかすめた。
翌日も男の子は同じようにやってきて、同じように過ごしていた。そして、5時のチャイムが鳴ると、いつものように帰ろうとした。
「あれ? ポケット、穴あいてるよ?」
私は、気になっていた事を投げかけてみた。男の子は、ポケットの穴に手を当てると、何も言わずに走って行ってしまった。
「今の子、深田さんとこのお孫さんだよね?」
常連の中島さんが、男の子を見て言った。
中島さんの話によると、男の子の名前は深田きいち君。十日ほど前、隣の市で車と自転車の接触事故があった。自転車に乗っていたのがきいち君の母親で、肋骨と足を骨折して入院中なのだという。きいち君は幼稚園児。2歳の妹がいる。二人は、父親の仕事が終わる時間まで、父親方の祖母の家に預けられているのだが、妹がまだ小さいので、おばあさんは妹の世話だけで手いっぱいの状態だそうだ。母親が交通事故に遭い入院中。家族も大変なのは容易に想像がつく。ポケットの穴なんて所まで気も回らないのは当然かもしれない。可哀そうな事を言ってしまった…。虐待を疑った事も、ポケットの穴を指摘した事も、男の子に申し訳ない気持ちがした。
「そのズボンお気に入りなんだね」
翌日、私はきいち君に言ってみた。
「ママが誕生日に選んでくれたやつ。」
「でも、ポケット穴が空いちゃってるね。縫ってあげようか?」
「ママがぬってくれるもん。恐竜のかっこいいやつつけてくれるって…約束したもん。」
きいち君は、ポケットの穴をぎゅっと握り、下を向いてしまった。
「ママ…ママ…。ママに会いたい…。」
握った手にさらに力が入るのが分かった。
「ママのお見舞いには行ってないの?」
「子どもはダメって…。」
きいち君はうつむいたまま首を振った。
最近の病院は、面会に制限がある所も多い。冬は、特に感染症対策で厳しくなるらしい。病院や入院患者にとっては必要な対策だろうけれど…きいち君は、まだ幼稚園児だ。私の息子が幼稚園児の頃、毎朝、「ママと離れたくない」と大泣きしていたのを思い出した。
「きいち君、つる、おろうか?」
私は、机の引き出しから折紙を出した。
「つる?」
「そう。ママが早く元気になりますように。ってお願いしながら折るの。お守りみたいなものよ。それをママに届けてもらおうよ。」
きいち君の前で、鶴を折ってみせた。
折り方をすぐに覚えたきいち君は、それから毎日、鶴を折るようになった。
手先が器用な子で、日に日にきれいな鶴を折れるようになった。そして、出来上がった鶴は、穴の開いたポケットにそっと入れて持ち帰って行った。
一か月ほど過ぎた頃、きいち君の姿を見かけなくなった。吉田さんから、きいち君の母親が退院したらしいという話を聞いた。
やっと春の気配が感じられるようになった三月の始め、久しぶりにきいち君がやってきた。
きちんと洗濯されたシャツに、いつものズボン。そして、隣には松葉杖の女性。
「ママ、元気になってきたよ。もう少しでこれもいらなくなるんだよ。」
きいち君がぴょんぴょん跳ねながら、松葉杖を指した。それから、きいち君は、本を持ってきたり、折紙を折ったりして、図書館で過ごしてきた様子を得意気に母親に話した。そうしているうちに、5時のチャイムが鳴った。
「今日は、ママと一緒に帰れるね。」
「うん。」
母親を気遣いながらも、踊るような足取りのきいち君を、ほっとした気持ちで見送った。
きいち君のズボンのポケットには、恐竜のアップリケがついていた。