阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「穴男」香久山ゆみ
仕事つまらねえ。社会は不可解。先刻あっちで悪口言ってたと思ったら、今度はこっちでその相手におべんちゃら。それをコミュニケーションというのか? 「ねえ、保険に入ってよ」「じゃあ入るから、うちの商品買ってよ」。世の中に本当に必要な仕事なんてあるのか?
どうしてもついていけなくて、ドロップアウトした。
が、社会という組織から離脱して、心安らかにいられたのも最初のうちだけ。そこも座り心地悪く。一週間もすると腹の中がぞわぞわ。不安。これからどうしよう。収入もなく生きていけるのか。いや、いけない。けど、こんな俺が再就職なんてできるのか。いや、できない。どうしよう。どうしよう。居ても立ってもいられない。
そこで、リストラされたサラリーマンかよ、独り身のくせに、ブランコ通い。目的もなくスーツ着て毎朝定時に公園出勤。夕方までぶらぶらして、帰宅。もちろん何の解決にもならない。
そんな無為な日々を過ごす、ある日穴に落ちた。
さいあく。
俯いて、足元ばかり見て歩いていたのに、何も見えていなかった。マンホールにすとんと落ちてしまった。人を呪わば穴二つというけれど、世間を呪ったら掘ってもいない穴に嵌まってしまった。暗い穴の中、なにも見えない。が、けっこう深そう。天は頭上はるか遠い。怪我のないのが幸い。だが、壁面には梯子どころか引っかかりも見つからず、登れそうもない。両手を広げてギリギリ届かない広さ。狭さ。すぐにくたばる状況ではないけれど、もちろんいつまでもいられるものでもない。
どうしたものか。
会社員なら。一人でなければ、発見されるやも知れぬが。希望もない。いや。こんなときこそ、ポジ思考。これまで読破した数多の自己啓発本を思い出せ。世間に環境に人生に感謝……できるか! 振り返る程にどんどん恨みつらみが増し、このまま死ぬと鬼神にでも成っちまいそうだ。いかん、脱出せねば。
見上げる。遠くに暗い空が見えるだけ。大声を出してみる。が、反応はない。周囲に誰もいないのか。叫んでも叫んでも、ただ声が掠れていくばかり。そもそも自分がどこを歩いていたのかすら覚えていない。見上げても何も見えない。蜘蛛の糸も。「おーい、でてこーい」と誰かが声を掛けてくれることもない。
俺はこんな所で生涯を終えるのか。何もない人生だった。いや、人生に意味のないことなどないと誰かが言っていた。この状況も?
――どれくらいの時間を穴の中で過ごしたろう。俄かに空が明るく光ったかと思ったら、どーん、どーん、と、地響きとともにすさまじい音がする。しばらくして音が収まる。静寂。何とかして穴から出た俺が見たものは。世界の終わり。戦争か、隕石の衝突か。すべてが消え去り、俺だけが生き残った。たまたま穴に落ちたおかげで。――
なんて妄想をしてみる。が、なんの解決にもならない。そもそも自分一人生き残ってラッキーなのか? そうではない気がする。あんなに憎んだ社会だけれど、やはり生きる場所はそこなのだ。全然希望に満ち溢れたりもしないけれど。とにかくここから出なければ。
……出れねえ。くそ。なんだよ、マンホール! 蓋しとけよ! は、そうか。人の入る穴で、man-holeか。いや、人の掘る穴で、マン・掘ーるか? あほな。いや、掘ってみるか! だめだー壁が固すぎるー。
そうこうするうちに。光明が射した。いや、南中だ。穴が深く底まで光が届かなかったせいで、今まで外が明るくなったのに気づかなかった。
真上からの太陽の光に穴の中が底まで照らされる。マンホールじゃ、なかった。
状況が分かると、案外事態はあっけなく解決した。背丈よりも少し高いところにロープが垂れているのが見えた。目標さえ明確に見えていれば、数度のチャレンジでロープを手に取ることができ、なんとかかんとかロープを頼りに踏ん張って穴から登りきることができた。
抜け出した穴を振り返る。井戸。「井の中の蛙、大海を知らず」ってか。ちぇっ、笑っちまう。まったくその通りだよ。でも、とりあえず。俺がまず第一にすべきことは決まっているな。井戸に蓋をすること。そんだけのことだけど、誰かの安全を守るって、俺ってまるでヒーローみたいじゃないか。なんて思ったりして、うん、悪い日じゃなかったと思おう。どこまでも青い空が眩しい。