阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「密漁」鈴木博己
男が、そこに道があるのかどうかさえはっきりしないような山道に迷い込んでから、すでに一時間以上たつ。そろそろ陽が傾きかけてきた。
「まいったな。」
五月とはいえ、山中ではまだまだ夜の冷え込みは厳しい。男は夕方には東京に戻るつもりでいたので、釣りの道具以外、簡単なサバイバルキットしか持って来ていなかった。
この山中を流れる渓流で捕れる鮎は桜鮎と呼ばれ、ほんのりと赤味を帯びた身は独特の香気を放つ。美食家の間で幻の鮎などと呼ばれ珍重されているのだ。とくに解禁直前のこの時期はかなりの高値で取り引きされる。密漁のアルバイトをしている男は、ある料亭からの依頼でその幻の鮎を釣にやって来たのだった。
辺りはすっかり暗くなってしまい、男はヘッドランプのスイッチを入れた。気温もかなり下がっている。
「まずいな。」
男はもう一度周囲をよく見回した。すると、生い茂った木々の隙間からぼんやりと灯りが見える。男はひとまずその灯りに向かって歩きはじめることにした。
灯りは小さな山小屋だった。男はクーラーボックスと釣竿を茂みにかくすと、山小屋の扉をノックした。
「御免ください、誰かいらっしゃいますか」
軒下の電灯が灯った。
「夜分に恐れ入ります。じつは車が故障して道に迷ってしまいまして。軒先で結構ですので今晩ここで眠らせて頂きたいのですが。」
「お待ちください」
鍵を開ける音がしてゆっくりと扉が開いた。小屋のなかから顔をのぞかせたのは野良着を着た白髪の老婆である。
「それはお困りでしょう。どうぞお入りください、外はまだだいぶ冷えますので。」
老婆の警戒心のなさにすこし戸惑ったが、それを田舎の人の親切心だと男は解釈した。
山小屋の土間をあがると板の間には囲炉裏が切ってあり、男は老婆から勧められるままに囲炉裏端に腰をおろした。
「なんにもございませんが、よかったらお召し上がりください。」
そういうと老婆は串刺しにした一匹の鮎を囲炉裏であぶり始め、湯呑みに白く濁ったどぶろくを注いで、男の前に差し出した。
「これはこれは、ありがとうございます。」
男は鮎の解禁日のことなど知らない振りをしてとぼけて言った。
「突然押し掛けた上にこんなにまでして頂いて、なんとお礼をいってよいか」
「なあに、この時期はあなたのように道に迷ったお客様が結構いらっしゃいましてな、今夜あたりもどなたかお見えになるのではと、お待ちしておったところなのですよ。」
「待っていたとはどういう意味です?」
「そうおとぼけにならなくても。あなたも鮎を釣りに来られたのでしょう。」
そうあっさりと言われてしまうと、もうそれ以上臭い芝居を続けることがばかばかしくなってしまった。
「ひょっとしてお婆さんも同業で?」
「いやいや、わしら地元のもんは必要な分だけ頂いて、頂いた分お返しをするだけでございます。」
そう言って老婆は鮎の串を男に差し出した。
「うまい。さすが幻の鮎と言われることはある。しかしお返しといってもいったいどうやって。」
「なあにときどき、川の主にお供え物をするだけです。」
老婆はそういって、空になった男の湯飲みに、再びどぶろくを注いだ。
「お供え、ですか。」
田舎の人はやはり素朴なのだな、と男はおもった。
一日中、山を歩き回った疲れだろうか、酒が回ってきたのだろうか、男は激しい睡魔に襲われ、目を開けていることができなくなった。
「なんだかとても眠くなってしまって。すみませんがここで休ませてもらっても構いませんか。」
「もちろんですとも。」
男は囲炉裏端にゴロリと横になると、すぐにいびきをかき始め、そして二度と目を覚ますことはなかった。
翌朝早く、昨夜の老婆が川岸で、手に持ったバケツからなにか切り刻んだ肉片のようなものを渓流の中に投げ込んでいた。
赤く濁った水面が群がった魚のぶつかり合うしぶきで泡立っている。
一般的に、鮎は岩に生えた苔などを食べるといわれているが、あるいはこのような川で育った鮎は、ほんのりと赤味を帯び独特の香気を放ち、幻の鮎などと呼ばれ珍重されたりするのかもしれない。