阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「釣り人」三浦幸子
こうして川に来たのは何年ぶりだろう。
おとりの鮎も買った。竿にしかけをつける。この竿はずいぶんの出費だったが、当たりも手にとるようにわかり、おかげで釣りの腕もずいぶん上がったものだ。
――けれど、この竿を買ったのがばれたとき、妻の桂子にはずいぶん嫌みを言われたものだった。どんなふうに言い訳をしたんだっけ。顔が自然とほころぶ。
水曜の夜のこと、いつものように慌ただしい夕食が終わろうとしたときだった。おふくろの食事を終えさせた妻が、困ったような顔をして私に言った。
「ねえ、お義母さんが鮎を食べたいって言うの。どうしよう」鮎なんて今が旬だ。スーパーに行けばいくらでも売っている。
「明日、帰りにでも買ってこようか?」
会社の帰りにちょっと高いがいい魚屋があるのを思い出した。
「ううん、そうじゃなくて、あなたが釣ったのが食べたいって」
私の唯一の趣味は釣りだ。暇さえあれば鮎を釣りに行っていた。おふくろの介護がなければ、このシーズン、私は家に居ない。
「あなた、釣りに行ってこない?」
まずは妻の言葉に驚いた。妻だって仕事をしながらの介護生活だ。二人で支え合ってやっとという生活が続いている。いくらお袋が鮎を食べたいと言うからって、私が出かければ妻にしわ寄せがいく。そう言うと妻は、
「でも本当に食べたそうなの。食もどんどん細くなるし、今のうちに食べたいものを食べさせてあげた方がいいと思うの」
妻の言葉が嬉しかったが、釣りイコール遊びと考えている私は、妻に申し訳なくて、なかなかうんとは言えなかった。
妻はスマホを取り出して調べている。
「ねえねえ見て。ほら、ここなら近いし、今年はいいみたいよ」
その川なら、自分の庭みたいに知り尽くしている。妻への申し訳なさとはうらはらに、私の気持ちはだんだん高揚してきた。
さっそく納戸の奥にしまい込まれていた釣り道具だの服だのを取り出してきた。
三日がかりですっかり準備を整えた私は、意気揚々と車に乗り込んだ。
川面は陽の光に輝いて、私を手招きする。
釣り仲間の中田さんが先に来ていて、声をかけてくれた。
「やあ、ずいぶん久しぶりじゃないですか。お母さんが悪いって、噂は聞いていたんですが、もう大丈夫なんですか?」
「いや、悪くなる一方で……おふくろが釣りたての鮎が食べたいなんてわがまま言うもんで」
「それはそれは、願ってもないわがままですねえ」
「えっ?」
「だって、我々は釣りが生きがいじゃないですか。それが、お母さんのせいで釣りに来れなくなった。
でもでも、お母さんが食べたいって、わがままを言ったおかげで、またこうして釣りに来れた。お母さんのおかげでね」
おふくろのせいで釣りに来れなくなった、などとは考えもしなかったが。
「もしかして、お母さんは、沢井さんのしんどそうな顔を見ていられなくなったんじゃないですか?だから、気晴らしに釣りにでも行ってこいと・・・・・・でも介護されている身ではそんなこと言えないじゃないですか。だから鮎が食べたいなんて」
そうかもしれないーー今頃気がつくなんて。
おふくろが今食べているのは、ほぼ流動食と呼んでもいいものばかりだ。鮎の塩焼きなんて食べられるわけがない。もし食べられても、それが釣ってきたものなのか養殖なのかなんて、わかりはしないだろう。
妻は、自分も介護で疲れているはずなのに、私に釣りに行くよう強く勧めてくれた。
水曜の夜の、おふくろと妻との会話の内容は知るよしもないが、二人の心遣いに胸が熱くなった。
水につかり鮎を放す。
今日のおとりは元気だ。思う方へ泳いでくれる。足の裏に川底の砂利を感じながら深い方へゆっくり進む。
疲れていたのか、川の流れに酔いそうになった時、竿にあたりがあった。鮎のようすをしっかりと見据えて左手にタモを持ち、竿を振り上げキャッチした。ずしりと重さを感じた。
二人の気持ちを大切に、このときを存分に楽しもうと思った。明日からの為に。
ブランクなど何でもなかった。私は以前と同じ「釣り人」として川に立っていた。