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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「花瓶の底の川」白河永都

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第38回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「花瓶の底の川」白河永都

ある日、男がひとりで散歩をしていると、どこからかサラサラという川のせせらぎが聞こえてきた。

おかしい。このあたりの住宅街に川は存在しないはずだ。

周囲を見渡すとその音は、家と家のわずかな間にある小さな骨董品屋から聞こえてくるのだった。男は川音に引き寄せられるように店に近づいていくと、開放された扉から中を覗いた。

「川の音が気になったかね?」

骨董品屋の店主であろう小柄な老人が、大ぶりの花瓶を両手で抱えて店の奥から現れた。

花瓶は陶器製で、藍色の表面に複雑な紋様が描かれている。胴部分は膨らんでおり、上部は細く口がせまい。壺のような形をしていた。

男の目は花瓶に釘付けになった。サラサラという川音は紛れもなく、老人の手の中の花瓶から聞こえてくる。どういうことだ、これは音の鳴る花瓶なのか。

「不思議であろう。ほうら、この中を覗いてごらんなさい」

老人に促されるままに、男は花瓶の口から中を覗き込む。思わず大きな声をあげてしまいそうになった。花瓶の底には、その容量からは考えられないほどの大量の水が流れていて、豊かな川がそこにはあった。そして川の流れの中に、一匹の鮎がたゆたうように泳いでいるのが見えたのだ。

それはあまりにも美しい光景だった。男はすぐにその花瓶が欲しくなった。値段を尋ねると「これは売り物ではない」と老人は答えた。「川の手入れが大変でな。普通の者には清流を維持するのが難しいのだ」と、しわがれた声で言った。

それでも、花瓶の魅力にとりつかれてしまった男は諦めきれない。どうにかして譲ってほしいと強く頼み込んだが、老人はいっこうに首を縦に振らなかった。

辛抱たまらず、男は花瓶を老人の手から奪い取って逃げ出した。後ろから何かを叫ぶ声が聞こえたが、かまわず走り続けた。

それ以来男は、川の流れる花瓶を自宅に隠し持ち、日に何度も中を覗き込んではため息をついていた。

美しい。どういう仕組みになっているのかはわからないが、花瓶の中を覗き込めば、いつでもサラサラと音をたてながら澄んだ川が流れ、鮎が悠然と泳いでいる姿がある。その様子を眺めるたびに心までも澄み渡っていくような気がして、男は人知れず深い満足感に酔いしれるのだった。

しかし数日が経つにつれ、次第に川の水が濁ってきた。その時期と同じくして、それまで泳いでいた鮎の姿が見えなくなってしまったのだ。

鮎はきれいな河川にしか生息しないことは男も知っていた。鮎がどこかへ消えたのは、水が汚くなってしまったせいだろう。

もう一度あの清流と鮎の姿を取り戻したいと思う。どうしたら川を元の美しい状態にすることができるのだろうか。

盗みをはたらいてまで手に入れた花瓶は、もはや男にとってなくてはならないものだった。

男はおそるおそる花瓶を斜めに傾けてみた。中から水が出てくる気配はなかった。今度は大胆に花瓶を逆さにしてみた。それでもやっぱり水がこぼれてくることはない。どうしたものかと、何度か手のひらで花瓶を叩いたり、振ってみたりもした。その拍子に、花瓶は手からするりと滑り落ちて、床の上で大きな音をたてて砕け散った。

「ああっ」

その瞬間だった。どこからともなく現れた洪水のような激しい水の流れが男をおそった。部屋は奔流に飲み込まれた。男はもがきながら、水の上に顔を出そうと必死になったが無理だった。

そのまま流れに飲み込まれていく――ように思われて、いつのまにか自分がすいすいと水の中を泳いでいることに気がついた。

男は一匹の鮎になっていた。

水流の激しさは落ち着き、周囲は穏やかな川の流れに変化していた。鮎となった男の頭上から、聞き覚えのあるしわがれた声がした。

「盗っ人には似合わない清い流れだが……まあよい。これからはその川で過ごすのだな」

骨董品屋の老人の声だった。男は自分が鮎になって、新しい花瓶の底の川に閉じこめられたことに気がついた。呆然となった。何かを言おうとしたが魚の口がぱくぱくと動くだけで、声を発することができない。

「おや、どこからか川の音が聞こえるぞ」

誰か見知らぬ者の声が、はるか遠くから聞こえたような気がした。