阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「間引き」菅保夫
みんな腹を空かせていた。世界中の人々が、もはや貧者であれ金持ちであれ一人残らず飢えている。今は歴史上きっと最悪の飢餓の時代となった。
新年を迎えた途端にその大きな変化は起こっていた。ある国で若い男が朝食がわりにと自らもいだ果実を食べた。いつもの食感と香り、よく熟れた甘みとバランスの良い酸味を味わい飲みこんだ。
果実は普通の味だった、妙な匂いも感じなかった。しかし、飲み下して一分ほどで倒れてしまったのである。表情は変わらず、声も上げずにヒザから前へ倒れていった。まるで砂で作った像が崩れるようで、二度と立ち上がれないであろうことが誰の目にもわかり、男はそのまま亡くなった。
誰かが毒を盛ったわけではない。理由はわからないまま被害の範囲は拡大し、やがて世界中で発生していることがわかった。その日からあらゆる植物が人間に対して致死性の毒を持つようになっていたのだ。最初はどこかの国が化学兵器を使用したのではないかと疑われたが、それは違った。すべての国で例外なく発生していたのである。
最初の一日で一億人ほどの死者が出たと推測された。これは人類存亡の危機である。どういった毒であるか学者たちは特定しようとしたが、それは叶わなかった。
読破どんなことをしても消すことができず、それは人間の食料がやがてなくなることを意味していた。あの発生日を境に、その後収穫されたあらゆる農作物、米や麦や野菜だけにとどまらず、海草や植物性プランクトンにいたるすべてが人間に対して有毒物になっていた。結果的に肉も魚も有毒になっていたのである。奇妙なのは人間以外の生物には無害という点だった。
人々はまだ無毒の食べものを手に入れるため食料品店へ急いだ。当然ながら食品の値は釣り上がった。間もなく略奪や暴動が始まり、いくつかの戦争も発生した。それはすぐに終わりはしたものの、多くの死者を出し、多くの食料が誰の口にも入らぬまま消失した。
あの日から一年経過したところで地球の総人口は半分になっていた。飢餓により体力が弱まったところに感染症が流行し、滅亡を早めるのである。
ある国のある場所、老婆が庭に出ていた。自分も近いうちに命を失うと悟っている、しかし穏やかで優しい表情である。暖かく天気が良かったので芝生に寝転がり、このままお迎えが来てもいいと思っていた。
ポケットには2つに割れたアメ玉を入れている。それは最後の食料であり、それをいつ口に入れようか楽しみにしている。もうずっと前から辺りは静かで、近所の人たちはみんな亡くなったのではと感じていた。
老婆の耳に泣き声が届いてきた。目を閉じていたので夢だと思ったが違うようで、起き上がるとそこに子どもがいた。栄養失調で痩せ細り、汚れた男か女かもわからない幼児が力なく泣いていたのである。
老婆は無視することができなかった。おそらく親も亡くなったのだろう。老婆は最後の食料であるアメ玉の半分をその子の口へ入れてやった。途端に泣きやんだその子は、ポッと光が灯ったような笑顔になった。
どこからかもう一人子どもが現れた。兄弟なのか先の子より小さく、当然ながら痩せ細っている。老婆は迷うことなく、その子に残りのアメ玉をすべて与えた。二人とも天使のようなすばらしい笑顔を見せてくれて、老婆はとても幸福な気分に満たされたのだった。
三人で笑っていると、突然地面に何か落ちてきた。芝生をハネまわるそれは、三匹の丸々肥えた鮎だった。鳥のイタズラだと思った老婆だったが、その鮎を見て腹が鳴った。そしてどうせ間近に死ぬのならと、それを食べることにした。
香ばしく美味しそうに焼き上がった鮎を子どもたちも我慢できず、老婆もそれを止めはしなかった。それはただの塩焼きだったが、空腹もあいまってか美味しく、三人とも一口食べて涙を流していた。すぐにがっついて食べるかと思った子どもたちも、ゆっくりと味わって食べるのだった。
それから三人は川の字に寝転がって死を待った。いつの間にか眠ってしまい、目覚めると朝になっていた。何と、あの鮎は無毒だったのである。その日から生き残っていた世界中の人々の目の前に、鮎などの淡水魚が日に二度空から舞い落ち空腹を満たすようになった。その後、勇気ある一人が熟した木の実を自らもいで完食し、すべての植物から毒が消え去ったことを発見したのだった。