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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「冬の鮎」長谷川美緒

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第38回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「冬の鮎」長谷川美緒

窓際に置かれたクリーム色のベッドの上で妻は静かに半身を起こし、こぼれてくる光を見ていた。二月にしては珍しく明るい陽光が、妻の顔と寝巻の胸の上で踊っている。静かに病室の扉を閉めて、僕はゆっくりと窓際に向かった。妻の視線が、窓の廂から長く伸びたつららの先端に吸い寄せられる。ぽたり、とそこから雫が落ちた。

ベッドの傍の椅子に腰を下ろすと、妻がこちらを振り返って微笑んだ。こんなに屈託のない顔を見るのはいつぶりだろう。

「今日は元気そうだね」

「あなたと行った旅行を思い出していたの。いつだったか……ほら、鮎を食べたとき。宿の、軒下のつららが見事だったでしょう。写真をたくさん撮ったわね」

まるで今その旅先にいるかのように、はしゃいだ様子の妻の話を聞きながら、僕は記憶をまさぐってみる。妻の病気が見つかる前には、たしかに二人で幾度か小さな旅行をした。きまって寒い時期で、温泉に浸かってあったまりたい、と妻が言うのをきっかけにして、僕が慣れないインターネットで宿を探した。当日は二人暮らしのだだっ広い家に入念に戸締りをして、車で出かける。僕が運転する間、妻は饒舌になるでもなく、かと言って黙ったままでもなく、窓の外を見つめていて目に留まったものがあると短くしゃべった。そんなふうにして二時間ほどでたどり着く宿はどれも、静かな雪に半分うずもれた様相で出迎えてくれた。しかし……。

(鮎なんて、食べたっけか?)

子供たちは成人して家を出ていて、夫婦だけの旅行なので、派手ではなくとも美味しいものを食べてゆっくり過ごせる宿を、と考えていつも行き先を決めた。出てくる料理を二人して丹念に味わい、珍しいものがあれば仲居さんに尋ねもした。まばらに言葉を交わしながらそれぞれに舌鼓を打つ、穏やかな食事どきに、鮎が供された記憶はない。そもそもあれは夏か、秋に食べるものではないのか。

どこか落ち着かない気分にとらわれて、僕は妻の様子を注意して窺った。頬にはいつもよりも赤みがさし、病気をする前のような、いや、むしろもっと若いときを思わせるきらきらとした笑顔を浮かべて、旅行の話を続けている。鮎のこと以外は、僕も思い出して相槌を打つことができた。つららの宿にも覚えはあった。怪物の牙のように鋭く並んで伸びた氷の柱に向けて、妻はしきりにデジタルカメラのシャッターを切っていた。ぴかぴかの白いご飯が美味しかったことも、風が冷たくて温泉街の散歩を断念したことも、土産物は何を買えばいいか宿の人が詳しく教えてくれたことも、懐かしく思い起こされる。鮎だけが、ちぐはぐだった。確認するタイミングを何となく逃したまま、消化できないものを胃に抱えたような気持ちで、僕は病院をあとにした。

車を運転しながら、昔のことを思い出した。会社の先輩から指南を受けて鮎の友釣りに夢中になり、ひと頃は夏になると週末が来るたび川へ車を走らせた。きらきらと輝く川面を眺めながら、おとりの鮎を泳がせる。うまくかかるか、という緊張感と、自然の風に身を浸すことの解放感が一体になって押し寄せる。そういえば一度、家族を連れて行ったことがあった。まだ小学生だった息子二人と僕とで釣った鮎に、串を通して塩を付け、河原で火をおこして焼いた。妻は日差しを避けて木陰に座っていたが、焼きあがった鮎の長い串を持って、豪快に楽しそうに食べていた。

あの夏の鮎が、冬の記憶に入り込んだのだろうか?

家に着き、車を車庫に入れてふと、写真を見てみようと思った。二人で行った旅行の写真は、妻がすべてプリントしてアルバムに綴じたはずだ。居間の戸棚を開けると、日付と行き先が丁寧に書き込まれた紙のアルバムが重ねてあった。覚えのある日付のものを抜き取って、めくる。少しぶれたつららの写真、宿の玄関の前に二人で立って撮ってもらったもの、部屋の中の様子。

「おっと」

アルバムの間に挟まっていた紙が、ひらりと落ちた。拾い上げると「当宿の名菓」の文字とともに、鮎をかたどった和菓子が二尾、寄り添うように載っている。茶色くチョンと焼き付けられた鮎の目を見て、そうか、と思わず膝を打った。部屋に入ったとき、テーブルに用意された鮎の和菓子を気に入って、いとおしそうに口に運んでいた妻の笑顔が脳裏によみがえった。甘いものが苦手な僕のぶんまで、もったいないと言いながら彼女は食べてしまったのだ。謎が解けて、思わず一人で少し笑ってしまった。

また鮎を食べに出かけられるだろうか。居間の暖房を点け、座ろうとしてやっぱり腰を上げて台所へ立った。今夜は冷える、と思った。