阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「鮎大好き」鍋谷末久美
マンションのエレベーターを3階で降り、スーパーの買い物袋を両手に提げた美奈子は、足を止めた。
狭い通路の向こう側から子どもたちの走ってくる姿が見えた。
端に寄って、通り過ぎるのを待った。
梨花と同じくらいの年かな?
玄関扉の鍵を開けようとすると、その扉は見知らぬ女の子の手で開けられた。
その子はスニーカーの爪先をトントンと床先に打ち付け、靴を履く間ももどかしい様子で掛け出していった。
嫌だ。間違えた?
マンションの玄関先は一応に同じ形だ。
美奈子は扉の斜め上のネームプレートを確認した。
合っているウチの家。
梨花の友だちかな?
何か他人の家に上がり込むみたい。
出かけるときには揃えてあったはずのスリッパが、片方だけ、玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の中程のトイレの前まで、大きく移動していた。
そのトイレの扉が勢いよくパタンと大きく開けられた。
美奈子はギョッとして、卵の入ったスーパーの袋を落としそうになるのをかろうじてこらえた。
これもまた見知らぬ男の子が飛び出してきて、玄関扉から脱兎のごとく走り去った。
「梨花。玄関の鍵はいつも……」
小言を言いながら向かった先のキッチンには、誰もいなかった。
まったく、あの子ったら「出かけるときは鍵をかけてね」って言ったのに、どこに行ったのだろう。
梨花が小学校に上がるのを待って、パートタイマーに出た美奈子だったが、一人っ子の梨花に鍵を持たせるのも心持たなかった。
それで、小学校で放課後、預かってくれる学童保育を申し込んだのだが「今日は公文があるから帰ります」なんて、習ってもいないお稽古事を口実に帰ってくるようになった。
やはり、あの子に鍵を持たせるのは早かったかと考えながら、冷蔵庫にスーパーで買ってきたものを詰め込んでいると玄関先で
「ただいまー」
と、声がした。
梨花が先頭になって、先ほど通路で擦れ違った子どもたちを引き連れて戻ってきた。
頬を紅潮させ、目をキラキラと輝かせる梨花。
そんな姿を見ていたら何も言えなくなった。子どもたちは順番にトイレを使い
「今度はゾウさん公園まで競争」
と、言ってまた駆け出して行った。
うちは公衆トイレじゃない、と思うのだが、玄関の扉を開けては閉めて、何度か同じ事を繰り返し、夕方にはみんな帰って行った。
家の中の喧噪が拭われ、一気に静寂を取り戻し、役場から流される「赤とんぼ」のメロディーが、もの悲しく聞こえてきた。
「あら、あなたはお家に帰らなかったの?」
話しかけても返事をしない。
梨花が困惑の表情を浮かべる。
「あなたのパパやママ、心配してないかしら?」
なおも執拗に問いかける。
「ママ、この子、チイちゃんって言うんだよ。チイちゃんには、パパもママもいないんだよ」
その日からチイちゃんは家に帰ることなく、我が家の二番目の娘として育った。
チイちゃんがウチの子になって数年の月日が流れた。
最初のうちはミルクしか飲まなかったのだが、最近は何でもよく食べる。
「わあ、きれいに食べたねえ」
チイちゃん専用の皿の上は、舐めるように何も残ってはいなかった。
首筋を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らした。
「鮎、美味しいよね。でも、みんな川魚は食べないのよ。チイちゃんだけでも食べてくれてよかったわ」
吉野の伯父が、この時期になると毎年送ってくれるのだ。
ああ、もうそんな季節なんだ。
初夏の訪れを告げる魚。
ところが
「骨がある魚は面倒くさい」
などと、主人までが子どもみたいな事を言う。
近所の友だちに貰ってもらうのだけど、それでも余りあることがある。
私以外は誰も食べない、と言いそびれてきてしまっていた。
何だか強い味方が出来たようで、頼もしい。