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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「苦い魚」りょう

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第38回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「苦い魚」りょう

作業台の上で、鮎が静かに横たわっている。その目は絶望しているようにも、まだ希望を捨てていないようにも見える。覗きこむと、ちらりとこちらを見たような気がして、思わず目を逸らした。

「ではこれから竹串を作ります」

スタッフである浩太の声に、胸がぎゅっとなる。娘と二人だけで田舎の自然教室に参加したのは正解だった。その娘も今は川辺で他の子供と遊んでいる。

私は見よう見まねで、竹の棒を削り始めた。

「ガリ勉とか気持ちわりーよな」

小学生の頃、浩太は事あるごとに私に言った。そのたびに睨むと、ケタケタと笑いながら風のように走って逃げてゆくのだった。

浩太は私にないものをたくさん持っていた。友達が多くてスポーツ万能で、勉強はできなかったけれど手先がとても器用で。

初恋だった。でも思春期を迎えると私たちは言葉を交わすことも少なくなり、中学を卒業すると会うことさえなくなってしまった。

再会して言葉を交わしたのは、成人式後の飲み会だった。五年ぶりに会った浩太は、ビール片手に私を指さし、

「お前、w大に行ったんだってな」

と言った。そして「女に学歴なんか必要ねーよ」と小学生の頃と同じようにケタケタと笑い、タバコの煙を吐いたのだった。

私の初恋は、苦いままに終わった。

「ママー」

川辺に立つ娘が手を振っている。水面が太陽の光を反射して、きらきらと眩しい。私も手を上げて応えると、娘は虫取り網を持って子供たちの輪に戻った。

「よっ偶然だな。お前も母親になったのか」

振り向くと、浩太がすぐそばに立っていた。日に焼けた顔を崩しながら、昔と同じように人懐っこい笑みを浮かべている。

「苗字変わってるから名簿見ても気付かなかったわ」

「浩太こそ真っ黒で別人だし。それに自然教室の先生になっているなんて驚いた」

嘘。本当はsnsで見つけた浩太のプロフィールで、この子供向け自然教室を知った。

「なあ、お前さっきから小刀の遣い方が全然なってないわ。俺が直々に教えてやるよ」

隣にやってくると、浩太は私の持つ不格好な竹の棒をひょいと取り上げた。血管の浮き出た太い腕が視界を横切り、浩太も大人になったんだ、と当たり前のことを考える。

「旦那は?」

「家に置いてきた。うちら仮面夫婦なんで」

「マジ?」

「いや、嘘かな」

とりあえず納得したのか、浩太はふーんと言って小刀を滑らせ始めた。夫は今頃女のマンションへ行っている。でも私は何も言わない。ただ娘のために、心を殺している。

しばらくすると、見違えるように滑らかな竹串が仕上がった。浩太は鮎を持ってくると左手に持ち、塩を掴んだ右手で撫でまわした。まんべんなく塩を塗ると口を開かせ、削りあげたばかりのつるりとした竹串を口の中にゆっくり差し込み、慣れた手つきで、ぐっぐっと押し込めてゆく。鮎は喘ぐこともなく、浩太の手の中で静かに体を揺らしている。

「なあ、時効だから言うけどさ。実は俺、お前のこと好きだったんだよね」

竹串が鮎を貫いた。ゆるやかな風が、私たちの間に吹き始める。

「お前頭良かったじゃん。大学まで行ってさ、すげえよ。でもなんか俺、悔しくてさ。……からかってばっかりで悪かったな」

浩太は前を向いたまま言った。日よけになっていた名も知れぬ木の葉が、ざわざわと揺れる。

私が勉強を頑張っていたのは、親に褒められると嬉しかったから。でもそれ以上に、浩太に頑張ったな、凄いなって言われたかったから。それを、やっと。やっと、いまさら。

気がつけば、浩太は私を見ていた。彼の指に光るものはない。夫が誰かと恋をしているというのなら、妻が恋をしたって。

「あのさ」「ママー!」

かき消すように、娘の声が響いた。

「ザリガニ獲れたー! 見て見てー!」

「おっすげえな、オジサンに見せてみー!」

あとは焼くだけだから、と浩太は私の手に竹串を握らせた。

「実はさ、今度俺のとこにも子供が生まれるんだ。デカくなったら一緒に遊んでやってよ」

はにかみながら言った浩太は、私の返事を待つこともなく風のように走っていった。

「な……」

川できらきらと水しぶきがあがる。私の声は、はしゃぎ声によってかき消された。

鮎は苦いんだよな、とどこかで誰かが言った。