阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「恋じゃなかった」広都悠里
あゆみだからあゆちゃんと呼ばれることに抵抗はなかった。可愛い名前だと思っていた。だがある日、世の中に漢字というものがあることを知ったのである。
歩実でも亜由美でも亜弓でもよかった。なのに鮎美である。
「鮎、って何? 魚がついてるよ」
「お魚の鮎、っていう字だから」
「どうして魚の名前なの!」
「おじいちゃんがつけたのよ。おじいちゃんは鮎美が生まれるのをそれは楽しみにしていてねえ。なんといっても初孫だったから」
初孫なら、もっと気合を入れて名前を付けてよ。女の子に魚の名前をつけるなんてどうかしているとしか思えない。
優しくて大好きだったおじいちゃんを、うらめしく思った。
「なんでこんな名前を付けたのよ」
以来、お墓参りのたびに心の内で文句を言うようになった。
できることならいっそもう平仮名の名前にしたい。鮎なんて食べたいとも思わないし、今後も食べることはないだろう。
その日、鮎美は終業時間近くにかかってきた電話のせいで職場の飲み会に遅れてしまった。
そうっと入って目立たないよう一番近くの席に座ると、隣は人事の辻本さんだった。
「えーと、野田さんは下の名前なんだっけ」
話題がないからってそれを聞くのか、とうんざりしながら「あゆみです」と答えた。
たいていの人は「どんな字を書くの?」「魚の鮎です」「魚?」と生臭いものを見るような目つきで鮎美を見ると「ふうん」と話をそこで終了させるのだが、彼は違った。
「魚の鮎で鮎美。もしかして、夏生まれですか?」
「六月です」
「だから鮎美、なんですね」
鮎は十一月から五月まで禁漁だからちょうど禁漁明けですね、そう言ってビールを飲み干す横顔を首を傾げて見つめた。
鮎に詳しそうだが、全く興味がないし、うれしくもない。
「鮎はいいですよね。味はあっさり上品、すべらかなあおい金色のからだ、鮎を見ると夏だなあってなつかしく思います。僕は山育ちだから」
「山育ち?」
「海なし県出身なので」
辻本さんはくしゃりと笑って、目を細める。
「子供の頃は魚より肉、って思っていたし川魚なんて地味だしどこがうまいんだろうと思っていたけど、大人になってからその旨さにびっくりしたんです」
好きになったらきれいに見えるようになるものです、なんといっても鮎は川魚の女王ですからね、という言葉を聞きながら鮎美は頬が熱くなった。
こんなに鮎のことを褒める人に会ったのは初めてだ。
別に鮎美のことを言っているわけじゃない、そんなことはわかっているのに。
鮎は夏の季語にもなっています、と辻本さんは熱く語る。
「夏の匂いを運ぶ魚ですよ。新緑の頃、遡上を始めるんです」
透明な水の流れ、夏の光に反射する水面、せせらぎに逆らって進もうとする鮎、あたりはやわらかに鮮やかな緑の連なり。そんな風景が目に浮かんだ。
「ああ、釣って食べたいなあ」
「釣りがお好きなんですか?」
「そういうわけじゃないんですけど。小さな川に柵をして鮎を放して釣られせてくれるところがあるんですよ。川っていっても川の水を引きこんで作ったような小さなものなんです。釣って食べると格別のうまさです」
「そんなの、どこにあるんですか?」
「群馬です。もうすぐ禁漁期間が終わりますよ。七月の若鮎は骨が柔らかくておいしいそうです。なんてね、ガイドブックの受け売りですけど。これからの時期鮎は最高ですよ。是非、行ってみて下さい」
最高、ってそんな大袈裟な。魚の話だが頬が緩む。おかしいよね。こんなことで自分の名前を前より好きになった気がするなんて。
「是非、ってそんな簡単に」
「あれ?」
辻本さんはうろたえた。
「ごめん。ひょっとしてまだ聞いていなかった? 来週あたり辞令が出ると思うけど」
もしかして、群馬営業所へ移動?
顔が引きつるのが自分でもわかった。
遡上の時期にあわせて移動なんて笑えない冗談だ。ひょっとしてこんなにも鮎のことを褒めたのは鮎美が群馬に移動になるからなのか。注がれたビールをあおるように飲まずにはいられなくなった。