阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「隔たり」見坂卓郎
真夏の引っ越しは汗だくだった。腕で額の汗をぬぐう。三階の部屋まで往復するたびに腕と太ももが悲鳴を上げた。やはり業者に頼むべきだったか――。荷物は想像よりはるかに多く、家じゅうが段ボールでいっぱいになった。
急な転勤だった割には、新築で立地のよいアパートが見つかった。前の社員寮と比べると天国だ。新築の香りが何とも心地よい。風呂とトイレが別の、いわゆるセパレートタイプなのもお気に入りポイントだった。
さて、と。僕は記念すべき第一回目のトイレを使うべく、廊下に積まれた段ボールの隙間に身体をねじ込んだ。トイレのドアを開け、ぴかぴかの便座に腰を下ろす。
用を足し終えたとき、突然目の前で「ドスン」という大きな音が聞こえた。何があった? あわててドアノブに手をかける……が、力を入れてもびくともしない。何かが当たっている感触があった。もしかして、廊下に積んでいた段ボールが崩れたのだろうか。
もう一度、ドアを壊すつもりで体当たりした。やはりぴくりとも動かない。廊下の段ボールは食器関係だったか――。だとしたら、かなり重たいはずだ。その後も幾度となくチャレンジしたが、開く気配を見せない。どうやら僕は、この窓もない小部屋に閉じ込められてしまったらしい。
僕は自力での脱出を一旦あきらめ、ドアを叩いて声を上げた。
「すみません、どなたかいませんか!」
誰か気づいてくれ。そう信じて必死に叫び続けた。しかし、何度叫んでも反応がない。そういえば、このアパートは完璧な防音設計を売りにしていた。まさかそれが裏目に出ようとは……。
大声を出し続けたので喉がからからだった。僕は手洗い用の蛇口から水をすくい、口をつけた。水だけはいくらでもあるから、すぐに死ぬことはないだろう。数日待てば、きっと誰かが不審に思って訪ねてくるはず。
疲れのせいか、まぶたが重くなってきた。外はもう夜なのかもしれない。僕は壁と便器の間に身体を横たえた。新生活の初日にまさかこんな場所で寝ることになるなんて。自らの悪運を呪いながら、目を閉じた。
翌日、ここがトイレだと気づいたときの衝撃は相当だった。夢だと信じて二度寝しようとしたくらいだ。昨日のように大声で助けを呼んでみたが、やはり結果は同じだった。
音以外で、外に異常を知らせる方法はないものか――。周りを見渡してみる。あるのはトイレットペーパーと、水くらいだ。
水……? そのとき、一つの考えが浮かんだ。そうだ、水だ。水を床に溢れさせれば、やがて部屋の外に流れ出る。そうすれば誰かが異常に気づくに違いない。よし、これでいこう。
手洗い用の蛇口を両手で握りしめ、全体重をかけて思いきり引っ張る。数回繰り返すと、蛇口は九十度首を曲げて真横を向いた。そのままレバーを引くと、目論見どおり壁に向かって水を吹き出した。即席噴水の完成だ。
徐々に床に水が溜まっていく。足元が冷たくなってきたので、便座の上に避難して何度もレバーを引いた。水はドアの下の隙間から廊下に流れ出てくれているようだ。
三、四時間ほど続けただろうか。延々と水を出し続けていたとき、玄関のドアがガチャリと開く音がした。鍵をかけていたはずなので、入ってきたのは大家さんだろう。
「ここです、助けてください!」
ドアを叩いて力いっぱい叫ぶ。近づいてきた足音はどうやら複数のようだった。
「大丈夫ですか?」
誰かの声がして、段ボールを動かす気配が感じられた。
ドアを開けると、そこにいたのは大家さんと、そして消防士が三人。
あっけにとられていると、消防士の一人が口を開いた。
「この大火事の中、無事だったのはこの部屋だけです。火の回りが早く、下手に外に出ると煙を吸ってかえって危ないところでした」
大火事――。思いもよらぬ言葉が耳を通り抜ける。開かれた玄関から聞こえるサイレンの音も焦げた臭いも、まるで別世界で起きたことのように現実感がなかった。
「火が部屋に燃え移らなかったのはこの水のお陰ですね。賢明な判断でした」
翌日の新聞に『奇跡の生存者』と載ってもなお、僕はその幸運について全く実感が湧かなかった。
ただぼんやりと、次は防音にこだわらないアパートにしよう、と心に決めていた。