阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「だってさぁ」荒川眞人
五年前にこの世から去った父が星になったと、母は信じている。足腰が立たないので、僕が車椅子を押して、家の近くの見晴らしのよい土手まで連れてくる。夜空を見上げる母は、ニット帽を被りグルグルに襟巻を巻いて、寒さに耐えながら車椅子の中に埋もれそうになっている。
「お父さんはどの星になったんやろ。小さな星やろな。見えへんわ……。なぁ、康史、あの綺麗に三つに並ぶ星は何か教えてくれへん?」
白い息を吐きながら、母はグローブ型の手袋をした指で夜空をさした。ふるえてうまく方向が定まっていないが、冬の夜空で真っ先に目につくのはオリオン座だ。
「オリオン座の三ツ星だよ。あの三つがちょうどオリオンのベルトあたりで、それを囲むように四つの星が四角く並んでいるやろ。その四つは肩あたりだったり、脚だったりするんや」
僕は母の背中で車椅子のハンドグリップを握っていた。
「ほんとぅに綺麗やわ。あの星座、夜空に一番くっきりと浮かんでいるわぁ。もっとあの星座の話を聞かせてんか?」
認知症が進んだ母と何度も繰り返すやり取りだ。
僕はオリオン座ににまつわる神話を話した。月の女神のアルテミスが狩の名人のオリオンを愛していた。そのことにやきもちを焼いた太陽の神アポロンが、アルテミスを騙してオリオンを殺させてしまう悲しんだアルテミスはオリオンを星座にしてもらった。
「よう知ってるんやねぇ。さすがに高校の教師だけあるわ」
母が僕の説明を聞くといつもこんな調子で感心する。高校の教師といっても、僕は数学の教師だ。母に同じことを聞かれるから本で調べて説明できるようにしているだけだ。
「綺麗やわ……。それじゃあ、そのオリオ……なんていったかな。その星座のすぐ横で、綺麗にきらめいているあの星はなに?」
「ああぁ、オリオン座に左肩にあたる隅っこに明るい星があるやろ。その少し離れたところでふたつの星が大きく輝いているよな。みっつを繋げてみると三角形ができるやろ。それを冬の大三角形と呼ぶんや」
母はようやく分かったぞ、と言わんばかりに大きく首を縦に振る。こんな説明をしても母はすぐ忘れてしまう。
「なぁ、康史。話は変わるけど、お前、幾つになった?」
「四十五歳だよ」
「……そうやねぇ。そろそろ考えなあかんわ……」
「何をだよ?」
これも幾度となく繰り返したやり取りだ。
「嫁さんだよ」
五年前に父を亡くしてからは、母と一人息子のぼくとの二人暮らしだ。母がぼくに嫁さんをもらって欲しい気持ちはよく分かる。でも、この年になるまで縁がなかったし、いまさらという気持ちだ。
「あの人とはどうなったの?」
「あの人って?」
「お前と仲のいい……、うちに来てくれる……、それ……、う~ん、名前を何と言ったか?」
「和江のこと?」
「そうそう和江さん。いいお人じゃないかい。どうだいお前のお嫁さんに?」
母は家に一度来ただけの和江のことを覚えている。彼女は高校の時からの同級生で同じ教師をしている。気心の知れた教師仲間で飲む時のメンバーの一人だ。
僕の母が認知症になったという噂を聞きつけ、母との二人暮らしでは大変だろうと、家に覗きに来てくれたことがあった。姉御肌のところがあって面倒見がよい。生徒にも人気があるようだ。彼女も独身だが、古くからのつき合いでそんな気になったことはない。それは彼女も同じだろう。
「だってさぁ」
ぼくの受けごたえに母の方が小さくしぼんだ。
「康史はいつも、だってさぁって……、そう言ってのらりくらりする……」
物忘れはひどくなるいっぽうなのに、僕の結婚問題については不思議と頭が回転する。
「だってさぁ……、どちらもその気がないんだぜ」
ぼくはまた同じ受けごたえをしていた。母は和江を一度見たきりなのに、星のことと同じように何度も彼女の名前を出す。
いつもならこのやり取りで、母が黙り込んで終わるはずだった。が、この日は違っていた。その後寂しそうにつぶやいた。
「だってさぁ……、もうすぐ、あたしもお父さんと同じように星になるんやから……」
母の吐いた息が寒空の下で白く細い帯となった。